Up ニーチェ : <理想主義=復讐主義>批判 作成: 2010-12-30
更新: 2021-03-02


    人は,自然・生活・カラダで生かされている。
    しかし人は,想念を紡いでこれを世界に見なす。
    自然・生活・カラダという豊かな系に比して圧倒的に貧しく些末で不細工なのがこの想念なのであるが,人は自然・生活・カラダを見ることができないで想念の方を世界にする。
    そして己や周りをこの想念に従わせようとする。

    その想念は,特に,理想主義・進歩主義である。
    理想主義・進歩主義は,現前の意味・価値が考えにのぼらない幼稚の様である。
    幼稚な考えのやることは幼稚なことであるが,その幼稚は愚劣と同じことになる。
    理想主義・進歩主義は,愚劣の蔓延になる。

    そこで理想主義・進歩主義に対する批判となるわけであるが,ニーチェのつぎのことばもこの趣旨で読めばよい:
      ニーチェ『この人を見よ』
    これまで世人は,かれらが理想的世界なるものを捏造した度合いに応じて,この現実の世界から,それのもつ価値,意味,真実性を奪っていたのだ‥‥
    理想という嘘が,これまで現実の世界にかけられた呪いであったのだ。
    人類そのものが,この嘘によって,その本能の奥底に至るまで,うそつきになり,にせものになってしまったのだ


    理想主義は,<理想社会>主義である。
    ここでひとは,「理想社会」を「正義が貫徹される社会」にする。
    翻って,いまの社会は「不正義が行われる社会」である。

    ひとは,「不正義」の内容を「報われない者の産出」にする。
    そして,「報われない者が産出されるのは,これを行う者──不正義の者──がいるからだ」にする。
    そこで,正義の者の構えは, 不正義の者への憎悪と復讐である。

    こうして理想主義は,復讐主義になる。
    これを立てるのは,己を<報われない者>と定める者たちである。
    そこで,ニーチェの理想主義批判は,「己を<報われない者>と定める者」批判になる。

      ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った』「毒ぐもタランテラ」より
    見なさい、これが毒ぐもタランテラの穴だ! その正体を見たいと望むのか?
    ここにくもの巣がかかっている。さわって、ふるわせてごらん。
    くもがいそいそと出て来た。よく出て来た、タランテラ! 
    おまえの背中には、黒い三角のしるしがついている。おまえの魂のなかにあるものも、わたしには見当がついている。
    おまえの魂のなかにあるのは復讐の一念だ。
    おまえに噛まれると、真黒なかさぶたができる。
    おまえの毒は復讐心を植えつけて、人びとの心を狂わせ、踊らせる。
    平等の説教者たちよ!  
    わたしが諸君に話しているのは比喰だ。諸君も人びとの心を狂わせ、踊らせるではないか。諸君は毒ぐもタランテラだ。
    隠れた復讐心の持ち主だ!
    しかし、わたしは諸君の隠しているものを明るみに出してやろう。
    わたしが諸君に面とむかつて、わたしの高山の哄笑をあびせかけるのもそのためだ。
    わたしが諸君のくもの網をこわすのもそのためだ。
    諸君を怒らせ、嘘でかためたその穴からおびきだし、諸君の口癖の「正義」の背後から、諸君の復讐心をおどりださせようとするわけだ。
    なぜなら、人間が復讐心から解放されること、これがわたしにとって、最高の希望への橋であり、長期の悪天候のあとの虹であるから。
    もちろんタランテラの願うところは、そうではない。
    「世界中に、われわれの復讐心で暗くなった悪天候がゆきわたること、これをわれわれは正義と呼ぶ」──かれらはたがいにこう語りあう。
    「われわれに対して等しくないすべての者に、復讐と誹謗を加えよう」──タランテラたちは心をあわせて、こう誓う。
    「そして『平等への意志』──これこそ将来、道徳の名にかわるべきものだ。権力を持つ一切のものに反対して、われわれはわれわれの叫びをあげよう!」
    諸君、平等の説教者たちよ!
    してみれば、権力にありつかない独裁者的狂気が、諸君のなかから、「平等」を求めて叫んでいるのだ。
    諸君の、ふかく秘められた独裁者的情欲が、こうした道徳的なことばの仮面をかぶっているのだ!
    傷つけられた自負、抑圧された嫉妬、おそらくは諸君の父祖の自負であり、嫉妬であったものが、諸君のなかから、復讐の炎となり、狂気となってほとばしり出てくるのだ。
    父親が黙って押隠していたものが、息子になると、口をききだす。
    わたしはしばしば息子が、暴露された父親の秘密であるのを見た。
    この説教者たちは、いかにも感激に駆られている者といったふうだ。しかしかれらを興奮させているのは、純真な感情ではなくて、──復讐の念なのだ。
    またかれらが緻密で冷静になるなら、それは精神がそうさせるのではなくて、かれらの嫉妬が緻密で冷静にさせるのである。
    かれらの敵愾心は、またかれらをして思想家の道を歩ませもする。
    それが敵愾心だということは、──かれらがいつも行きすぎをやることでわかる。
    あげくのはては、かれらは疲労のあまり雪の原で行き倒れになったりする。
    かれらがあげるすべての不平の声からは、復讐の念が聞こえる。
    かれらが呈するすべての讃辞には、ひとを傷つける意図がある。
    ひとを裁く者だということが、かれらには無上の幸福と思われる。
    しかし、わが友人たちよ、わたしはあなたがたに、こう勧める。
    ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな!
    かれらは悪質で、素姓の劣った人間たちなのだ。
    かれらの顔からのぞいているのは、首斬り人と密偵だ。
    自分の正義をしきりに力説する者すべてに、信頼を置くな!
    まことに、かれらの魂に欠けているのは、円熟の蜜ばかりではない。
    たとえ、かれらがみずから「善くて(ただ)しい者」と称していても、あなたがたは忘れてはならない。
    かれらがパリサイ人となるために欠けているのは、ただ──権力だけであることを。
    わが友人たちよ、わたしをほかの者と混同したり、取り違えたりしてくれるな。
    生についてのわたしの教えと同じものを説く者がいる。
    それが同時に平等の説教者、すなわち毒ぐもでもあるのだ。
    毒ぐもどもは、その穴のなかにひそんで、生に背いているにもかかわらず、しかも生を讃え強調する。
    これはその相手に打撃を与えようという意図だ。
    その相手とは、現に権力を掌握している者たちのことだ。
    この権力者たちのあいだでは、いまもなお死の説教がはばをきかせているからである。
    もしそうした事情がなければ、タランテラどもはまた別の教えを説いたであろう。
    その昔、,最もたくみに世界を誹謗し、異端者を火あぶりにした者たちも、ほかならぬこの毒ぐもの一族であった。


    引用文献
    • 手塚富雄訳 : ニーチェ『この人を見よ』, 岩波文庫, 1969.
    • 氷川英廣訳 : ニーチェ『ツァラトゥストラはこう言った 上』(岩波文庫), 岩波書店, 1967.