Up 「哲学」群の大区分法 作成: 2011-01-02
更新: 2011-01-02


    哲学とは,つぎの問題を立て,この答えを探求する営為ということになる:
      過去・現在の人間・生き物の中の特に一つが<自分>であるということを,どう理解したらよいのか?
    <自分>であるとは,どういうことなのか?
    この<自分>が知る/理解するところの<事物・世界>とは,何なのか?
    そもそも,<自分>が<事物・世界>を知る/理解するとはどういうことなのか?

    問題の定立,答えの探求は,ことばを用いて行う。 しかし,この<ことばを用いて解明する>という考え方が,先ず論点とされねばならない。 そしてこのとき,哲学の論考をつくる者はつぎの2タイプに分かれる:
      A. <ことばを用いて解明する>を,ありとする
      B. <ことばを用いて解明する>を,なしとする

    Bの立場は,「ことばは,そもそもこのように用いられるものではない」とする立場である。
    『哲学探求』のウィトゲンシュタインは,この立場である。

    Aの立場は,世界 (解明されることになるもの) とことばとの対応を信じていることになる。 そして,世界とことばとの対応を認める考え方は,つぎの2タイプに分かれる:
      A1. ことばは世界の写し
      A2. 世界はことばの写し

    デカルトのコギト (「我思う,ゆえに我あり」) を進めると,「世界はことばの写し」になる。

    「ことばは世界の写し」は,唯物論がこれのいちばん単純な例になる。

    また,「世界はことばの写し,ことばは経験の写し」にすると,経験論になる。
    経験論は観念論よりは唯物論に近い感じが一見するが,唯物論が「ことばは世界の写し」であるのに対し経験論は「世界はことばの写し」であり,観念論の側になる。

    ここで,カントについて。
    カントは,経験論を意識して,「ことばは世界の写し」と「世界はことばの写し」の間に折り合いをつけようとした哲学者ということになる。 すなわち,『純粋理性批判』において,「世界はことばの写し」を「先天的総合判断の可能性」という形の問題にした。
    ここで,「総合」の意味は,つぎのようになる:
      言明Pを以て言明Qの判断をするとき,これが《Pの含意としてQを導く》ものであるとき,「分析的」と謂う。 Pの含意というふうにQが導けるものでないとき,「総合的」と謂う。
      判断の「先天的」を問題にする場合,「先天的分析判断」は自明であるので,問題になるのは「総合的」の方である。
    さて,カントが「先天的総合判断の可能性」という問題定立に意味があると考えたのは,数学の命題が「先天的総合判断」の例になっていると見ていたためである。
    しかし,数学の命題は分析的判断である。 (実際,命題が分析的判断であるように体系をつくっているのが,数学である。) よって「先天的総合判断の可能性」という問題定立も崩れてくる。
    数学についてある程度専門的な知見をもっていないと,カントが数学の命題を先天的総合判断の例にしているくだりは,ひっかかりを感じずそのまま流してしまうふうになるので,注意を要する。