Up | はじめに | 作成: 2019-05-23 更新: 2019-05-23 |
「わたしとは何か」である。 この問いは,生活の忙しさの中でうっちゃられる。 しかし,心に隙間があく時がある。 そのとき,「わたしとは何か」の問いが頭をもたげる。 この問いを抱くのに哲学者である必要はない。 実際この問いは,子どもの時分に持たれ,大人になると捨てられる,といったものである。 「わたしとは何か」の問いが捨てられるのは,考えても埒が明かないからである。 考えるとっかかりすら無い。 そこで,この問いから後退したところでがんばってみる,となる。 即ち,主格を抜いた<ある>を立てて,それがどのようなものであるかを考える。 「存在とは何か」である。 このスタンスからの「存在とは何か」の論を,存在論という。 この存在論は,科学として行うのみである。 科学に広く通じていない者──個人はこの者である──は,愚にもつかない空論を生むのみである。 実際,哲学はこの イデオロギーの時代には「自分の存在論が正しい」をぶった批判・論争が見られたが,そのようなのは当然,目くそ鼻くその批判・論争にしかならない。 存在論の意味のある論形は,「存在論はどうしてこのようなのか」である。 意味があるというのは,これが人間生態学になり,また人間生態学の視点からの哲学論になるからである。 さらに,反照的に科学論にもなる。 本論考は,この論形の論考をやってみることにする。 存在論──《「存在」とは何か》──ではなく,《「存在論」とは何か》である。 存在論はどういう行為・営みなのかを論じてみようというわけである。 |