Up 哲学の存在論 : 要旨 作成: 2019-05-25
更新: 2019-05-25


    哲学の存在論は,「存在とは何か」の知見を求めてこれにあたる,というものではない。 ──「存在とは何か」の知見を求める先は,科学である。
    哲学の存在論は,「科学以前の存在論」のように捉えるものである。
    これに関心を寄せる立場は,歴史学ないし人間学である。


    「哲学の存在論」では,プラトンのイデア論を先ず取り上げることになる。
    西洋哲学の存在論の主流は,これが型になっているからである。
    (ホワイトヘッド :「西洋哲学はプラトンの脚注に過ぎない」)

    イデア論は,概念実在論である。
    「虫」ということばと「虫」と呼ばれる者たちでは,「虫」ということばの方が実在だというわけである。
    実在をことばの方に措くわけだが,こうすると見掛け整合的な理論が一応成る。(これの逆は,科学をすることであり,よって哲学者のするところとはならない。)
    ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』では,概念実在論があからさまに言語実在論として述べられる (「言語写像理論」)。


    イデア論は,倒錯である。
    それは,創世神話の倒錯と同型のものである。
    科学が未発達の文化は,人間が世界の中心になる。
    そして人間即ち言語なので,言語が世界の中心におさまる。

    ただしこの倒錯は,「時代の必然」とは言えない。
    時代を斟酌しても,イデア論は特異である。
    実際,要素還元的な存在論が──これは少しの自然観察眼があればもてるものなので──古くからあった。

    それはそうとして,ともかくも,イデア論を以て哲学と科学が分岐する。
    《倒錯を択って哲学へ,自然観察を択って科学へ》となる。


    このようなイデア論がいまの時代にも一定数の読者を獲ち得るのは,どうしてか。
    それは,マンガがひとに読まれるのと同じである。
    設定,ストーリー,ことば,絵がおもしろければ,読まれる。
    このときひとがたのしんでいるのは,<表現>である。