Up <科学になれない> 作成: 2019-06-04
更新: 2019-06-04


    科学は,命題論理系を含蓄する。
    <実在>の対象化は,命題論理系の語を以てこれを指示することである。
    その命題論理系は,数学を手本にする。

    逆に,語と実在の対応をつくれない探求分野は,科学になれない分野である。
    「語と実在の対応をつくれない」の意味で「複雑」な系を対象にする探求分野が,この部類になる。
    これらは,「人文科学」に回収される。
    ──翻って,「人文」の意味は,「科学になれない」である。

    「語と実在の対応をつくれない」の内容は,「対象画定は曖昧なものになり,そして対象は状態変化する」である。
    現象の多義性は自然科学でもそうなのだが,この比ではないということである。


    わたしの知る数学教育学は,このようなものである。
    この「学」の用語は,実在との対応をつくれないものである。
    実際,数学教育学で事実命題として立ったものは一つもない。
    現象を事実命題に言い表せば忽ち嘘になるからである。

    「科学になれない」──「語と実在の対応をつくれない」──は,個性である。
    ここで「科学」の名を欲しがると,妙な方向に進んだり,妙な理屈を立ててしまうことになる。

    数学教育学では,「妙な方向に進む」として,認知科学を当て込むというのがあった。
    いまの「数学教育学を科学に !」はどうなふうかということで「数学教育学 科学」で Google 検索すると,筆頭に「科学としての数学教育学」というのが出て来た。
    これはつぎのように説く:
       pp.129,130.
    科学としての数学教育学に関しても同様です.
    どのような数学をどのように教えるべきかを検討するのではなく,数学の指導や学習がいかに生じるのか,数学教育の営みの仕組みを理解することを目的とするのが「科学としての数学教育学」なのです.
    経済活動が経済学とは異なることと同様に,数学教育の営みは数学教育学とは異なるのです.
    一般に,自然界の物事の仕組みを理解することを目的とする科学は自然科学と呼ばれ,人間社会の物事の場合は社会科学と呼ばれます.
    数学教育が人間社会の営みであることからすれば,数学教育学は社会科学の一分野とみなすことができるでしょう.
    なお,ここでの「科学としての」という枕詞は,研究方法に関するものではなく,研究目的に関するものです.
    すなわち,数学を用いて現象をモデル化できたり,統計を用いてある現象の確からしさをより数学的に判断できたりするから「科学」と考えているのではありません.
    何を目的とするのかといった学問の大前提に応じて,科学なのか実践なのか区別しています.

    これは,「メタ」の構えをそのまま「科学」だとしているわけである。
    しかし「メタ」の構えにも,科学以前,非科学がある。
    科学以前,非科学と対立させてはじめて科学である。

    このテクストは,つぎの区別を立てる:
     「どのような数学をどのように教えるべきかを検討」
     「数学の指導や学習がいかに生じるのか,数学教育の営みの仕組みを理解」
    しかし前者には,当然後者が含まれてくるのである。
    「数学の指導や学習がいかに生じるのか,数学教育の営みの仕組みを理解」を思わない「どのような数学をどのように教えるべきかを検討」など,あるはずのないものである。

    ではなぜこのような物言い──数学教育をぼんくらにする物言い──になるのか。
    それは,この格好以外では数学教育学を立てられないでいるためである。

    現前の数学教育学は,数学教育が賢いとその中に吸収されてしまう。
    実際,大学の数学教育学担当教員には,数学教育の現場から来た者がふつうにいる。
    学会の歴史にしても,数学教育会から始まっている。
    なぜ数学教育学会ではなかったのか。
    数学教育の探求をもともと科学だとは思わなかったからである。
    あるいは, 「科学」の名を必要とする者たちではなかったからである。