Up 存在論の位置 : 要旨 作成: 2019-07-22
更新: 2019-07-22


    ひとの生活は,共同体ゲームである。
    ひとが生きることは,生活を共同体ゲームのルールに従わせることである。
    これは,うまくいかない。
    うまくいかないとき,ひとは<不快>になる。
    ひとの生活は,半分が不快である。


    不快は, ストレスである。
    ひとは,これを発散したく思う。
    発散の方法は,背徳である。
    そしてこれをあからさまにだすのが,「不良」である。

    背徳は,広義「文学」である。
    実際,文学をやるとは,背徳をやるということである。

    文学はまどろっこしい行為になる。
    背徳は,直接的表現がないからである。
    背徳の表現は,雰囲気の表現といったふうになる。
    雰囲気の表現なので,大部の著作にもなったりするわけである。

    あるいは,わざとことばを減らすという手法もある。
    これは,相手に「無言の雄弁」を想わせるというやり方である。
    翻って,「無言の雄弁」を信じない相手に対しては,無効である。


    ひとの生活は,ゲームの陽と陰であり,陽と陰が半分半分である。
    メディアは,陽を照らし,陰を臭いものとして蓋をするのが役目である。
    メディアが陰に触れるときは,陽を褒めるためである。
    このメディアに対して,文学はつねに劣勢である。
    偽善は偽悪に優るわけである。

    劣勢な文学は,これを引き上げようとする努力で保たれてている。
    この努力は,広義「文学論」である。
    文学論の課題は,陰の復権である。
    それは,どのような形になるか。
    「善悪の逆転」ではない──「善悪の逆転」は文学の領分。
    「善悪の彼岸」である。


    「善悪の彼岸」は,窮屈なスタンスである。
    実際,「善悪」の枠組に呪縛されたままの(てい)である。
    解決は,最初に彼岸に行ってしまうことである。
    そしてそこから,人の世に戻るのである。

    彼岸は,遠くにあるのではない。
    目の前にあるのがそれである。
    即ち,自然である。
    こうして,文学論は自然に向かう。
    そしてそれは,存在論になる。