Up 数学教育の貧困の解決 作成: 2019-07-25
更新: 2019-07-25


    「数学教育の貧困の解決」などと言うと急にテーマが矮小化したように感じるかも知れないが,そうではない。
    存在論は,自然の科学である。
    自然の科学は,数学が言語になる。
    したがって,数学教育の貧困は,存在論のネックになる。
    実際,存在論が哲学的思弁に自足してきたのは,数学の理由を知らないできたからであり,知らないできたのは,教えられることが無かったからである。


    数学教育は,数学教育の理由をずっと見失ったままである。
    はじめに,「脳みそを練る」が理由にされた。
    「形式陶冶」である。
    そこに数学教育改良運動が起こり,「形式陶冶」を批判し,「実利」を数学教育の理由とした。
    「形式陶冶」に対し,「実質陶冶」を自称することになる。

    「実利」は,ひとが社会の員としてあるときの実利を考えた。
    このとき,「実質陶冶」は「形式陶冶」と融合することになる。
    社会の員の能力陶冶は,「実質陶冶」と「形式陶冶」の両方になるからである。

    かくして,優秀な員になるための能力陶冶が,数学教育の意味になった。
    直近の「グローバリズム」ブームでは,グローバリスト養成が数学教育の意味になり,「数学的リテラシー」で数学教育界が一時舞い上がることになったが,それもこれも,数学教育の意味が「優秀な員」のアウトプットに措かれたためである。


    この数学教育は,ひとがみな「優秀な員」になることを志す者である限りにおいて成り立つ。
    しかし,ひとの少なくとも半分は,「優秀な員」を──この表記通り──括弧に入れる者である。
    括弧に入れることになるのは,「優秀な員」がピラミッド構成になることを見ており,自分がたかだか何合目の者かを察するからである。

    数学教育の理由は,「優秀な員」のアウトプットではない。
    数学教育の理由は,数学が科学をするのに必要だからである。
    それ以上でも以下でもない。
    翻って,数学教育は,ひとがみな科学を知ろうとする者である限りにおいて成り立つ。


    「数学教育の理由は,数学が科学をするのに必要だから」
    数学教育は,この単純な命題をずっと外してきた。
    「外してきた」のうちにこの命題に対する意識的ないし無意識的な抑圧があるとすれば,それは「ひとがみな科学を知ろうとする者である限りにおいて成り立つ数学教育」は持ち堪えられないと感じるためである。

    数学教育は,ごまかしでやってきた。
    ごまかしは,ばれずに済むかも知れないが,つねにほころびを現す。
    これを認めることが自己否定あるいは立場失墜になってしまう者はこれを認めないだろうが,そういうことである。

    彼らは,つぎのことをわかっていないことになる:
      「優秀な員」競争はひとをドロップアウトさせるが,
      科学志向にはドロップアウトはない
    科学志向にドロップアウトが無いのは,科学志向は競争ではないからである。

    しかしそもそも,ひとは科学に向かおうとするものなのか。
    そうである。
    ひとには,「存在の不安」がある。
    この不安を鎮めるものを,意識的ないし無意識的に求める。
    その「不安を鎮めるもの」が,即ち科学である。

    なぜ科学か。
    「存在の不安」を鎮めるものとして起こったのが科学だからである。