Up 民族主義の解決 作成: 2019-07-24
更新: 2019-07-24


    生物の生きるは,系の員として系のダイナミクスに翻弄される生きると,その中で個の勝手を通そうとする生きるである。
    個が己の勝手を通そうとする生きるはそれ自体系のダイナミクスであり,こうして系は自己組織化する系である。

    特に,ひとの生活も,<員的>と<個的>が半分半分である。

    いま,共同体Aに,外から優越的な<員的>が入ってきたとする。
    Aのこれまでの<員的>は,新しい<員的>で置き換わっていく。
    Aの員の<員的>からの疎外は,この新しい<員的>からの疎外に置き換わる。

    Aの員はこの疎外感を,「昔はよかった」の形に表現する。
    「よかった」は,つぎがこれの意味である:
      「昔は,<個的>が開放されていた」

    この「昔はよかった」では,昔の<員的>が忘却されている。
    昔の<員的>が忘却されているので,つぎの思いになる:
      「昔に帰りたいが,新しい<員的>がこれを許さない」

    この思いは,民族主義になる。
    民族主義の要点は,昔の<員的>の意図的忘却である。
    「民族」が,「<個的>の開放」をこれの絵にして,立てられる。


    例えば,「やまと民族」を立てる「国学」。
    「もののあはれ」や「やまとたましひ」を絵にして,「やまと民族」が立てられる:
      もののあはれ・やまとたましひで成立していた人の生活が,昔あった
    <員的>の意図的忘却を,見るべし。

    いまだと,「アイヌ民族」を立てるイデオロギー:
     「 その昔この広い北海道は,私たちの先祖の自由の天地でありました.天真爛漫な稚児の様に,美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は,真に自然の寵児,なんという幸福な人だちであったでしょう.」
    これは「アイヌ」の虚像である。( 『アイヌ学入門』)
    知里幸惠が語れば「無邪気」の部類になるが,「アイヌ民族」イデオロギーの者が語れば<員的>の意図的忘却である。


    《ひとの生活は<員的>と<個的>が半分半分》は,存在のダイナミクスである,
    民族主義は,「存在のダイナミクス」の考えを持てない(てい)である。
    翻って,民族主義の解決は,存在のダイナミクスを学ぶことである。
    この学びは,起こりそうもないものに見える。
    しかし,解決の形はこれの他にはない。