Up 時代遅れ/時代錯誤 作成: 2017-09-22
更新: 2017-09-27


    ハイデッガーは,哲学者として,哲学の存在理由を立てようとする者である。
    科学に対し,哲学の席取りをしようとする。
    「科学に先行する哲学」「科学の基礎である哲学」のように。
      細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, pp.42-46.
    ‥‥‥人びとは、この問い [「存在への問い」] がいったいなんの役に立つのかを知りたく思うであろう。‥‥‥
     存在とは、いつも、ある存在者の存在である。
    存在者の一切は、そのさまざまな境域に応じて、一定の事象領域の開拓と画定の分野となりうる。
    これらの事象領域はまた、たとえば、歴史、自然、空間、生命、現存在、言語などのように、それぞれに相当する学問的研究において主題的な対象とされることができる。
    学問的研究は、これらの事象領域の開発とその最初の画定を、素朴な態度でおおまかに遂行している
    それぞれの領域をそれの基本的諸構造について明確にする仕事は、すでに、ある形で、その事象領域そのものがそこで画定される存在境域についての、前=学問的な経験および解釈によって、はたされている。
    このようにして生じてきた「基礎概念」が、さしあたっては、この領域の最初の具体的開示のための手引きになっているのである。
    科学的研究の重点は、いつもこういう実証性におかれているけれども、その研究の本当の進歩は、そのようにしてえられる実証的研究成果を集積して「事典」に収録することにあるよりも、むしろ、事象についてこのように蓄積されていく知識の増加からたいてい反作用的におしだされてくる、それぞれの領域の根本構成への問いのなかにある。
     諸科学の本当の「動き」は、それの基礎概念に加えられる──透明な自覚をもってなされる、多かれ少なかれ根本的な──改訂作業のなかで起こっているのである。
    一学問の水準は、それらの基礎概念がどれほど深い危機に際会することができるか、ということから決定される。
     ‥‥‥
     基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象領域についての諸規定であって、この領域はこれらの規定においてあらかじめ理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになるのである。
    したがって、これらの基礎概念に真正の証示と「基礎づけ」を与えるためには、それに相応して先行的に事象領域そのものを究明しなくてはならないわけである。
    ところで、これらの事象領域は、それぞれ存在者そのものの境域から得られるものであるから、ここで述べたような形で基礎概念を汲みあげる先行的な探究とは、この存在者をそれの存在の根本構成について解釈するという仕事にほかならない。
    かような探究は、実証的諸科学に先駆しなくてはならないし、また先駆することができるのである。
    プラトンアリストテレスの仕事が、その例証である。
    この意味でおこなわれる科学の基礎づけは、‥‥‥特定の存在領域のただなかへいわば率先して飛びこんで、それに具わる存在構成をはじめて開示し、こうして得られた諸構造を問いの透明な指針として実証科学の用に供えるのであるから、この意味でそれは先導的な論理学である。 ‥‥‥
    カントの『純粋理性批判』の積極的収穫も、そもそも自然一般に本属するものを発掘する作業に着手したことにあるのであって、なんらかの「認識論」というようなものにあるのではない。
    カントの超越的論理学は、自然という存在領域の先験的事象論理学なのである。
     ‥‥‥
    存在への問いは、存在者をしかじかの存在者として探究していてそのさいいつもすでにある存在了解のなかでうごいている諸科学の先験的可能条件をめざすにとどまらず、存在的諸科学に先行してこれらをもとづけているもろもろの存在論そのものの可能条件をめざすものなのである。

      同, pp.140,141.
    「環境をもつ」ということは、存在的には当り前の話であるが、存在論的には問題なのである。
    この問題を解くということは、ほかでもなく、まず現存在の存在を存在論的に十分に規定することを要求する。
    環境をもつという存在構成は、とりわけK・E・フォン・ベーァ以来、生物学で再び用いられるようになったが、それをわれわれが哲学的に使用するからといって、それを「生物主義」だと推論してはならない。
    なぜなら、生物学も実証科学であるかぎり、決してこの構造を自身で発見し規定することができないのである──生物学は、むしろ、それを前提し、そしてたえずそれを利用せざるをえないのである。
    しかしまたこの構造そのものを、生物学の主題的対象のアプリオリな原理として哲学的に解明するためには、それをまず現存在の構造として理解することが必要である。
    このようにして理解された存在論的構造を手引きにして、欠如化の手つづきによって、はじめて「生命」という存在構成がアプリオリ的に輪廓づけられることになる。
    存在的にみても、存在論的にみても、配慮としての世界=内=存在が優位をもっている。
    そして、現存在の分析論のなかで、この構造がその基本的解釈を受けるのである。


    哲学のこの位置づけは,科学に対する無知を示すだけである。
    科学は進化している──時代はいつまでもプラトン,アリストテレス,カントではない。
    科学は,基礎論を哲学には期待してはいない。つくるときは自分でつくる。
    哲学の自閉した独り善がりを見て科学が何かを返すとしたら,哲学の時代遅れ/時代錯誤に対する「憐れ・無惨」の思いである。