Up 現存在 Dasein 作成: 2017-09-22
更新: 2017-09-27


    ハイデッガーの「存在」──「存在者の存在」の「存在」──は,イデア論のイデアである。
    イデアは,ことばによって示される。
    よって,「存在」は人に属する。 ──逆に,人が無ければ「存在」は無い(註)
    こうして,イデア論は,ことばの特権化を通じて人の特権化になる。

    『存在と時間』は,特権的存在者の「人」を,改めて「現存在」と呼ぶ。
    「現存在」と呼び直すのには,「特権」の意味を専ら主題にして余計な論点が入り込まないようにするという意趣がある。
      細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.38-41
    [「存在への問い」]を問うということは、このはたらきが、ある存在者の存在の様態なのであるから、それ自体、この問いにおいて問いがむけられている当のもの──すなわち存在──の側から本質的に規定されているわけである。
    われわれ自身が各自それであり、そして問うということを自己の存在の可能性のひとつとしてそなえているこの存在者を、われわれは術語的に、現存在 (Dasein) という名称で表わすことにする。‥‥‥
     しかしながら、このような行き方は、歴然たる循環論にはまりこむのではなかろうか。
    まず存在者をそれの存在について規定しておくことが必要だというのに、この規定にもとづいてあらためて存在への問いを立てようとするのは、これこそ循環論でなくてなんであろうか。
    その問いに対する答えによってはじめて手に入るはずのものが、この問いの開発のためにすでに「前提される」ということになるのではないか。
     ‥‥‥ 存在への見越しは、われわれがいつもすでにそのなかで動いている平均的な存在了解から生じてくるものである。 そしてこの存在了解は、つきつめれば、現存在そのものの本質的構成にぞくしているものなのである。‥‥‥
     存在の意味への問いのなかには、「循環論証」は含まれていないが、それにしても、問われているもの(存在)が、ある存在者の存在様態たる問いそのものへ,「再帰的に、あるいは先行的に、連関している」という注目すべき事態が含まれている。
    問うはたらきが、それが問うているところのものによって本質的に打たれているということ、このことは、存在問題のもっとも固有な意味にぞくすることなのである。
    ところでこのことは、現存在という性格をそなえている存在者は、存在問題そのものに、ある──おそらくは格別の──かかわりをもっている、ということにほかならない。

      同 p.47, 原著 pp.11,12.
    現存在自身は、その上、ほかの存在者にくらべて、ぬきんでた格別の性格をそなえている。‥‥‥
     現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない存在者ではない。
    それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということによって、存在的に殊別されているのである。
    Das Dasein selbst ist überdies vor anderem Seienden ausgezeichnet. ‥‥‥
     Das Dasein ist ein Seiendes, das nicht nur unter anderem Seien-den vorkommt.
    Es ist vielmehr dadurch ontisch ausgezeichnet, daß es diesem Seienden in seinem Sein um dieses Sein selbst geht.  


    念のため:
    上文およびつぎの文に見るように,「現存在 Dasein」の身分は「存在 Sein」ではなく「存在者 Seiende」である。
    ことばの見掛けが混乱を醸すので,注意すること。 ──どうせなら「現存在者 Daseiende」としてくれればよかったのであるが。
      同 p.130
    現存在とは、みずから存在しつつこの存在にむかつて了解的に態度をとっている存在者である。
    こうして、実存ということの形式的な概念が告示された。 すなわち、現存在は実存する、のである。
    さらに、現存在とは、いつも私自身である存在者である。
    こうして、現存在には各自性がそなわっていて、これが本来性と非本来性の可能条件をなしている。 現存在はいつもこれらふたつの様態のうちのどちらかにおいて実存しており、あるいは、両者の様態的無差別相において実存しているわけである。


      註. 同 p.226
    真理は、現存在が存在しているかぎり、かつその間だけ、《与えられている》(es gibt)。
    存在者は、そもそも現存在が存在しているときにのみ、かつその間だけ、発見され開示されている。
    ニュートンの法則も、矛盾律も、一般にいかなる真理も、現存在が存在している間だけ真であるのである。
    現存在がまったく存在していなかった以前には、そして現存在がもはやまったく存在しなくなった以後には、いかなる真理も存在していなかったし、いかなる真理も存在していないであろう。