『存在と時間』を読むことは,つぎの言い回しに付き合うことである:
この奇妙な物言いになるのは,「存在者」と「存在」を分けているからである。
──特に,「存在者が存在する」は,「存在者は存在を現す」がこれの言い換えになるものである。
実際,プラトニズムの系譜の存在論は,「存在者」と「存在」を分けて,「存在」を主題と定めるものである(註)。
さて,別格の存在者である現存在は,「存在者が存在する」において他の存在者とは別格のものである。
ハイデッガーは,この別格な「存在者が存在する」に,「実存 Existenz」の術語をあてがう:
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細谷貞雄訳『存在と時間』, pp.47,48
現存在は、たんにほかの存在者の間にならんで出現するにすぎない存在者ではない。
それはむしろ、おのれの存在においてこの存在そのものに関わらされているということによって、存在的に殊別されているのである。
してみれば、現存在の存在構成には、それがおのれの存在においてこの存在へむかって、ある存在関係をもっている、ということが属しているわけである。
そしてこのことはまた、現存在はおのれの存在においてなんらかの様式と明確度において、自己を了解している、ということを意味する。
この存在者には、おのれの存在とともに、かつこの存在を通して、この存在が自己自身に開示されている,ということがそなわっているのである。
存在了解は,それ自体,現存在の存在規定なのである。
現存在の存在的殊別性は、それが存在論的に存在するということにある。
‥‥‥
それは、ただ単純に存在者として存在するというのとおなじことではなく、存在をなんらかの形で了解するという仕方で存在するということを意味しているのである。
現存在がしかじかのありさまでそれに関わり合いうる存在そのもの、そして現存在がいつもなんらかのありさまで関わり合っている存在そのものを、われわれは、実存 (Existenz) となづけることにする。
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こうして,現存在の「存在者が存在する」が,「現存在が実存する」になった。
しかし,論は進展しているのかというのが,ここではやくも疑われてくる。
この種の論は,堂々巡り──術語を作ってくるくる回すばかり──になるのがお定まりとしてあるからである。
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細谷貞雄訳『存在と時間』, pp.47,48
‥‥‥そこから他のあらゆる存在論がはじめて発源することのできる基礎存在論 (Fundamentalontologie) は、現存在の実存論的分析論 (existenziale Analytik des Daseins) のうちに求められなくてはならない‥‥‥
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「現存在の分析論」で済むところを「現存在の実存論的分析論」と過剰に言い直している。
(確認:「実存」は「現存在」の含意である!)
堂々巡りの兆候が見え始めている。
註 : |
「存在者は存在を現す」は,数学での「図形」の扱い方を考えると理解しやすい:
円の図を書く。
図に描こうとした円は,形式である。
円の図は,円 (形式) の具体である。
具体は,形式の現象である。
形式と現象のこの区別が,イデア論である──形式がイデアである。
数学の主題は形式である。
図を導きにしているが,図に書くと形式ではなくなるので,図はむしろ隠すふうになる。
形式が保たれていさえすれば,「<点,直線,平面>は,<テーブル,椅子,ビールジョッキ>でも可」(ヒルベルト) となるわけである。
実際,存在論は数学を手本にしていることになる。
翻って,数学を参照すれば,存在論のチャレンジがどれほどのものかわかる。
即ち,対象の大きさ・複雑さが見えていない無謀で方向違いのチャレンジであるということが。
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