Up 存在 Sein と存在者 Seiende 作成: 2017-09-22
更新: 2017-09-22


    ハイデッガーの存在論は,プラトンの存在論──イデア論──の枠組の踏襲になっている。
    現前をイデアの現象と定めるわけである。
    イデアに対し「存在 Sein」のことばを用い,イデアの現象としての存在に「存在者 Seiende」のことばを用いる。

    科学を「存在者」の探究とするとき,「存在」の探究は科学の基礎学ないし普遍学の趣きになる。
    実際,ハイデッガーは,「存在への問い」をそのように位置づけるわけである:
      細谷貞雄訳『存在と時間 (上)』, p.46.
     してみれば存在への問いは、存在者をしかじかの存在者として探究していてそのさいいつもすでにある存在了解のなかでうごいている諸科学の先験的可能条件をめざすにとどまらず、存在的諸科学に先行してこれらをもとづけているもろもろの存在論そのものの可能条件をめざすものなのである。
    すべての存在論は、いかほど豊かで堅牢なカテゴリー体系を具備していようとも、それよりもさきに存在の意味をゆきとどいて明らかにし、この解明こそおのれの基本的課題であるということを自覚していないかぎり、根本においては、依然として盲目なのであり、そして自己の本来の意図に背馳するものなのである。


    科学者にも,科学を「存在への問い」の思いでやっている者がいる。
    「大統一理論」を唱える理論物理学者の類は,これである。
    彼らにとって現前は,隠されていて目に見えない普遍法則の現れである。

    ピタゴラスの「万物は数なり」も,この類である。

    実際,西洋哲学・科学は,「現前は,隠されているものの現れ」の思考様式が,一本の太い系譜として貫かれている。
    「隠されているもの」は,時代によって「イデア」になったり「神」になったりした。
    ヘーゲルでは「絶対理念」になる。


    翻って,「隠されているもの」を否定する論をつくると,これは哲学を終焉させようとする論になる。
    ウィトゲンシュタインの「何も隠されていない」,ニーチェの「神は死んだ」は,これである。
    ハイデッガーの『存在と時間』は,「存在への問い」の挫折を自ら現すことで,消極的に「哲学を終焉させようとする論」になっている。


    存在者と存在の区別は,日常言語を使えばこうなってしまうというものである。
    同じコップに「テーブルの上にある」「床に砕け散っている」といった異なる相があることから,相によらない<コップ>を考えなくてはならなくなる。