Up 途中放棄 作成: 2017-09-29
更新: 2017-09-29


    『存在と時間』は,つぎのことばで終わる:
      細谷貞雄訳『存在と時間 (下)』, pp.426,427
     存在全般の《理念》の根源や可能性については、形式論理学的《抽象》の手段をかりてたずねることは、決してできない。
    そのためには、問いと答えとの的確な地平がなくてはならない。
    存在論の基本的な問いの解明にむかう道程を求め、それをじっさいに歩むことがたいせつである。
    それがただひとつの道であるかどうか、それがそもそもまともな道であるかどうかは、それを歩んだあとではじめて決定できるのである。
    存在の解釈をめぐるたたかいは、調停によって解決することはできない。
    なぜなら、それはまだ点火されてさえいないからである。
    そしてそのたたかいは、行きがかりで始められるようなものではないであろう。
    たたかいに点火すること自体、すでに相当の装備を要するのである。
    われわれの考究は、ひとえにこれをめざして途上に立っている
    われわれは、どこまで進んできたのであろうか。
     《存在》というようなものは、存在了解のうちで開示されている。
    そして存在了解は、了解として、実存する現存在にぞくしている。
    存在があらかじめ非概念的にでも開示されているがゆえに、現存在が実存する世界=内=存在として、存在者に──世界の内部で出会う存在者にも、実存するものとしてのおのれ自身にも──かかわることが可能になるのである。
    存在の開示的了解は、いったいどのようにして現存在的に可能であるのか
    この問いは、存在を了解している現存在の根源的存在構成へさかのぼることによって、答えを得ることができるであろうか。
    現存在の全体性の実存論的=存在論的構成は、時間性にもとづいている。
    してみれば、脱自的時間性そのものの根源的な時熟のひとつの様態が、存在全般の脱自的投企を可能にするはずである。
    時間性の時熟のこの様態を、どのように解釈すべきであるのか。
    根源的な時間から存在の意味へ通ずる道があるであろうか。
    時間そのものが、存在の地平としておのれを打ち明けるのであろうか。

    この終わりは,序論で予告していた「第三編 時間と存在」(これの後に第二部が続く) に進まないで終わりになったということである。
    そしてこれは,『存在と時間』の目論見であった<科学に対する哲学の席取り>が放棄されたということになる。
    ──<科学に対する哲学の席取り>は,つぎのように宣言されていた:
      同, pp.42-46.
     存在とは、いつも、ある存在者の存在である。
    存在者の一切は、そのさまざまな境域に応じて、一定の事象領域の開拓と画定の分野となりうる。
    これらの事象領域はまた、たとえば、歴史、自然、空間、生命、現存在、言語などのように、それぞれに相当する学問的研究において主題的な対象とされることができる。
    学問的研究は、これらの事象領域の開発とその最初の画定を、素朴な態度でおおまかに遂行している
    それぞれの領域をそれの基本的諸構造について明確にする仕事は、すでに、ある形で、その事象領域そのものがそこで画定される存在境域についての、前=学問的な経験および解釈によって、はたされている。
    このようにして生じてきた「基礎概念」が、さしあたっては、この領域の最初の具体的開示のための手引きになっているのである。
    科学的研究の重点は、いつもこういう実証性におかれているけれども、その研究の本当の進歩は、そのようにしてえられる実証的研究成果を集積して「事典」に収録することにあるよりも、むしろ、事象についてこのように蓄積されていく知識の増加からたいてい反作用的におしだされてくる、それぞれの領域の根本構成への問いのなかにある。
     諸科学の本当の「動き」は、それの基礎概念に加えられる──透明な自覚をもってなされる、多かれ少なかれ根本的な──改訂作業のなかで起こっているのである。
    一学問の水準は、それらの基礎概念がどれほど深い危機に際会することができるか、ということから決定される。
     ‥‥‥
     基礎概念とは、それぞれの科学のあらゆる主題的対象の根底にある事象領域についての諸規定であって、この領域はこれらの規定においてあらかじめ理解され、そしてこの理解があらゆる実証的研究を先導することになるのである。
    したがって、これらの基礎概念に真正の証示と「基礎づけ」を与えるためには、それに相応して先行的に事象領域そのものを究明しなくてはならないわけである。
    ところで、これらの事象領域は、それぞれ存在者そのものの境域から得られるものであるから、ここで述べたような形で基礎概念を汲みあげる先行的な探究とは、この存在者をそれの存在の根本構成について解釈するという仕事にほかならない。
    かような探究は、実証的諸科学に先駆しなくてはならないし、また先駆することができるのである。
    プラトンアリストテレスの仕事が、その例証である。
    この意味でおこなわれる科学の基礎づけは、‥‥‥特定の存在領域のただなかへいわば率先して飛びこんで、それに具わる存在構成をはじめて開示し、こうして得られた諸構造を問いの透明な指針として実証科学の用に供えるのであるから、この意味でそれは先導的な論理学である。 ‥‥‥
    カントの『純粋理性批判』の積極的収穫も、そもそも自然一般に本属するものを発掘する作業に着手したことにあるのであって、なんらかの「認識論」というようなものにあるのではない。
    カントの超越的論理学は、自然という存在領域の先験的事象論理学なのである。 ‥‥‥
    存在への問いは、存在者をしかじかの存在者として探究していてそのさいいつもすでにある存在了解のなかでうごいている諸科学の先験的可能条件をめざすにとどまらず、存在的諸科学に先行してこれらをもとづけているもろもろの存在論そのものの可能条件をめざすものなのである。


    しかしいずれにしても,<哲学が科学に先駆>は決して起こらない。
    なぜか。

    哲学は,微妙を好む。
    「‥‥‥ではない」をいくつも重ねて,期する概念を反照的に浮かび上がらせようとする。
    このような概念は,科学では使えない。
    科学は,厳格を方法論にする。──推論 (計算) が成立するよう,体系を規範的につくる。これは,確信犯的に遂行される。
    厳格は,微妙とは違うのである。

    実証的諸科学に先駆しなくてはならないし、また先駆することができる」と言ってプラトン,アリストテレス,カントを例証にするのは,単に,科学を知らないということである。
    そして科学にしても,「存在」のまわりを堂々巡りするばかりの哲学なんかは,(はな)から相手にするものではないのである。