Up 循環論法の自覚 作成: 2017-10-01
更新: 2017-10-01


    『存在と時間』は,現存在の概念から存在の理念を導くという話である。
    これは,構造的に循環論法である。
    『存在と時間』は,《循環論法を自覚して循環論法を行う》という趣きになる。

      細谷貞雄訳『存在と時間 (下)』, p.191.
    実存論的解釈が循環論証を犯していると言われるとき、この異議が言わんとするところは、われわれは実存および存在全般の理念を《前提し》, 《それに合わせて》現存在を解釈しておいて、そのあとでこの解釈にもとづいて存在の理念を得ようとしている、という趣旨のものである。
    p.314
    Der gegen die existenziale Interpretation vorgebrachte »Zirkeleinwand« will sagen: die Idee der Existenz und des Seins überhaupt wird »vorausgesetzt« und »darnach« das Dasein interpretiert, um daraus die Idee des Seins zu gewinnen.

     ‥‥‥
    むしろわれわれの《前提》とは、 了解的投企の性格をもつものではあるまいか。
    すなわち、かような了解を発達させていく解釈の意図は、解釈さるべきもの (現存在) に、まさにみずから発言する機会をはじめて与えようとすることにあるのであって、そのものがこの存在者として、われわれの投企において形式的予告的に開示されているような存在構成をはたして示すかどうかは、やがてそのものが──この解釈をつうじて──みずから決定すべきことなのである
    pp.314,315
    Oder hat dieses Voraus-setzen den Charakter des verstehenden Entwerfens, so zwar, daß die solches Verstehen ausbildende Interpretation das Auszulegende gerade erst selbst zu Wort kommen läßt, damit es von sich aus entscheide, ob es als dieses Seiende die Seinsverfassung hergibt, auf welche es im Entwurf formalanzeigend erschlossen wurde?