Up イデア論 作成: 2017-09-24
更新: 2017-09-27


    物事の見方において,人には「差異を際立たせて見る」と「差異を丸めて同型を見る」の2タイプがある。
    哲学書を読むときは,前者はダメである。
    哲学でこれをやる者は,哲学がわかっていない者である。
    実際,哲学でひとが考えたり書いたりすることは,たかが知れている。
    たかが知れているものであるから,それらは少数の類型に収まる。
    哲学がわかっているとは,このことをわかっているということである。

    『存在と時間』の存在論は,イデア論の系統のものである。
    実際,この存在論の核心は,「存在者 Seiende の存在 Sein」を立てることであり,これはイデア論の図式「物事はイデア(実在) の像」をそのままなぞるものである。

    実際,『存在と時間』は,イデア論をある程度知っていないと読めない。
    逆に,イデア論を知っていることは,『存在と時間』がナンボのものかがわかることである。
    そこで,イデア論の簡単な押さえを,はじめにやっておこう。


    「存在」は,「同じが色々に現れる」というふうになる。
    そこで,<同じ>を「イデア」と定め,これを「存在」の本物と定める。
    そして,これの現れを本物の仮象とする。

    イデアとその現象の関係は,1対多である。
    イデア論はここで,ことばをイデアの直接の写しと見る。
    実際,ことばとこれの使用 (現象) は1対多であるから,イデアと現象の関係の1対多と符合する。

    「イデア」の概念は,「真理」と重なっている。
    イデアがいろいろに現象するということは,「騙される」があるということになるからである。
    そこで,直接「イデア」を捉えることが,「真理」を捉えるという意味になる。
    ところで,イデアはことばに写されている。
    したがって,ことばをしっかりもっていれば,真理の側にいることになる。
    逆に,真理の側にいないのは,ことば使い (ロゴス λόγος) ができていないからだということになる。


    なぜことばをこれほど特別のものに見たのか?
    この問いは,逆にいまの時代はなぜことばに信用をおかないのか?と考えることが答えになる。

    いまの時代は,「存在」を,下はニュートリノの 10-18m のスケールから,上は宇宙物理学の 1027m のスケールまで,考えねばならない。
    このくらい考えられて,「存在」云々の話になる。
    科学・技術の進歩が,「存在」のスケール幅がこんなに拡げてしまった。
    また,これと併さって,「存在」がとてつもなく複雑なものとして現れることになった。
    ここには,「ことばと実在の1対1対応」の考えが出てくる余地はない。

    イデア論は,「科学・技術のある水準ではこういう考え方が現れることもある」といったものである。
    イデア論は,文化人類学 (考古学) の主題である。
      イデア論では,ことばと<イデア=実在>が対応するから,「机」という実在がある。
      いまの物理学では,ミクロマクロ階層構造の中の特定スケールの現象が,その都度人にとっての存在である。よって,「机」は実在概念として立たない。

    ただし,イデア論にこれとだいたい同時期の「色即是空空即是色」を対置すれば,比較文化学の主題になる。
      「色即是空空即是色」では,「机」という実在はない。


    イデア論は,古代ギリシャのものである。
    「存在」観は,当時の科学・技術の水準を反映したものである。
    そして人間中心でことば中心の存在論が編み出されることになった。

    しかし,このイデア論は,その後ずっと西洋哲学の主流になる。

      言語を存在の直接の写しと見る考え方を,「言語写像論」という。
      ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は,これである。
      後に『哲学探究』で哲学批判をするウィトゲンシュタインも,『論理哲学論考』を書いているときはイデア論の者であった。

    文化人類学 (考古学) の主題であるようなものが,どうして哲学の主流になったのか。
    それは,《科学・技術に意識が向かわない限り,ひとの考え方は今も昔も同じ》だからである。
    迷信や宗教は,いまでも健在である。
    実際,哲学者の哲学者である所以は,科学・技術に意識が向かわないということである。