Up プラトニズムとは意味論をやること 作成: 2021-06-09
更新: 2021-06-09


    「プラトニズム」は,特別なことではない。

    ひとは,現前 presence をわかろうとする。
    その<わかる>は,<理解モデルを立てる>である。
    <理解モデル>は,<それでわかったつもりになるもの>である。
    <わかったつもりになる>は,<意味をつける>である。

    意味は,現前とは別モノである。
    現前に対しこれの別モノである意味を立てる構え,これが「プラトニズム」である。

    よって,「プラトニズム」は特別なことではない。
    「特別なことではない」どころか,ひとの自然である。
    「ひとの自然である」どころか,生物の自然である。

    翻って,生物とはプラトニズムをやる存在のことである。


    意味が現前の別モノ化であることを強調するために,「記号」ということばがつくられた。
    記号論とは,この「記号」の論のことである。
    今日は,「記号」ということばは流行らなくて,「情報」を使うようになっている。


    ひとは,意味が現前の別モノであるのに,意味を現前とイコールにする。
    意味をつけたのは自分であるから,自分が現前を治めている者になる。
    生意気になり,神になる。

    この生意気を批判して,現象論が起こる。
    現象論は,意味論に対する。


    現象論は,不可能な企てである。
    論じることはことばを用いて論じることであるが,そのことばは意味論だからである。
    ことばを使うその都度,意味論に捕まってしまう。
    分析科学が現象論の最もよい形であるが,意味論に回収させて「成果」となる。

    哲学的現象論は,無惨である。
    グチャグチャになるのみ。

    そのグチャグチャの代表が,ハイデッガーの『存在と時間』である。
    グチャグチャの果てに,ウルトラ・プラトニズムになってしまった。
    ミイラ取りがミイラになったわけである。


    プラトニズムに対する「イデア論」のことばは,ミスリーディングである。
    このことばが,ひとにプラトニズムが何か小難しい話だというように思わせてしまう。
    自分こそプラトニストなのに。

    プラトンと俗人の違いは,意味が現前とは別モノであるのを捉えたことである。
    プラトンの間違いは,意味を存在にしてしまった──意味の存在論 (「イデア論」) をつくった──ことである。
    だから,昔の人間である。
    これがもし「情報論」でもやっていたら,多くの愚劣な哲学を生まずに済み,科学が少しはやりやすい環境がつくられたかも。