|
Marx=Engels (1846), p.33
かくて思弁のやむところ、現実的な生活において、現実的な実証的な科学がはじまる。
すなわち人間の実践的な活動の、実践的な発展過程の叙述がはじまる。
意識についての言辞はやみ、現実的な知識がそれにかわらねばならない。
独立的な哲学は現実の叙述がはじまるとともにその存在の媒質をうしなう。
|
|
|
同上, pp.43,44
すなわち労働が分配されはじめるやいなや、各人は一定の専属の活動範囲をもち、これはかれにおしつけられて、かれはこれからぬけだすことができない。
かれは猟師、漁夫か牧人か批判的批判家かであり、そしてもしかれが生活の手段をうしなうまいとすれば、どこまでもそれでいなければならない──
これにたいして共産主義社会では、各人が一定の専属の活動範囲をもたずにどんな任意の部門においても修業をつむことができ、社会が全般の生産を規制する。
そしてまさにそれゆえにこそ私はまったく気のむくままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをし、午後には魚をとり、タには家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批判家になることはない。
|
|
科学を標榜していながら,「まったく気のむくままに今日はこれをし,明日はあれをし,朝には狩りをし,午後には魚をとり,タには家畜を飼い,食後には批判をする」という幼稚な論をつくる。
このギャップは,なんなのか。
それは,「人間」の捉えがまったくできていないことを示すものである。
人間は,<いま>の反映ではない。
<進化していまに至っている>というものである。
進化は,<祖先種を部分的に改修>の累積である。
<いま>は,<過去>の記憶といったものである。
そして,<過去>がふつうに頭をもたげる。
人間は,生物をやめることはできない。
「まったく気のむくままに‥‥」は,生物の存り方でない故に,人間のあり得る形ではない。
生物の生活は,余裕は無くされるようになっている。
「余裕」とは,「これに割り込んだり,つけ込んだりする者が現れる」ということだからである。
引用
- Marx=Engels (1846) : Die Deutsche Ideologie
- 古在由重 [訳]『ドイツ・イデオロギー』(岩波文庫), 岩波書店, 1956
|