Up 反パルタイ : フーコーの場合 作成: 2020-03-16
更新: 2020-03-16


    フーコー (1978) において,フーコーは「お里が反抗屋の,反パルタイの精神革命主義者」である。
    なお発言内容については,時代──フランス「五月革命」が10年前,ベルリンの壁崩壊が 11年後──を斟酌する必要がある。

      フーコー (1978), p.15-17
    今日、われわれの政治的イマジネーションの涸渇ぶりはどうか。
    その貧困ぶりには全く驚嘆せざるをえません。‥‥
    この二十世紀の社会的=政治的な場における想像力の貧困なさまが、一体どこからくるのかとその理由をさぐってみると、やはり私にとっては、マルクス主義というものが重要な役を演じているように思えるのです。‥‥
    マルクス主義が、政治的イマジネーションの貧困化に貢献してしまったし、いまも貢献しつつある ‥‥
    マルクス主義なるものが、基本的な意味で権力の一様態にほかならぬという点をおさえておく必要がある。‥‥
    科学性と予言性とが、真理をめぐる拘束力として機能している ‥‥
    マルクス主義と結びついた権力関係の力学から自由になることが問題‥‥

      同上, pp.20,21
    マルクス主義が一つの政党というものの表現としてしか機能していなかったので、その結果として現実の社会に起こっているさまざまな重要な問題が政治的地平から排除され、一掃されてしまった。
    そうして排除されたさまざまな問題を浮かびあがらせることの必要性がげんに生じているのです。
    マルクス主義政党も、伝統的なマルクス主義ディスクールも、そうした問題を考慮する資質を欠いていたわけですが、その問題とは、たとえば医学の問題であり、性の問題であり、理性と狂気の問題といったものです。 ‥‥
    いま挙げた新たな問題を、つまり医学とか性とか理性とか狂気などの問題を、さまざまな社会的な運動──異議申立や造反の動きなどに結びつける必要があるでしょう。
    そうした社会的な運動を政党はともすれば無視しがちだし、またその運動の力を弱体化させる傾向があるからです。 ‥‥
    そうした運動はたとえば知識人であるとか、学生であるとか、囚人であるとか、いわゆるルンペン・プロレタリアートといった人びとの間にみられるものです。‥‥
    こうした新しい反抗の形式によって、これまで論理と政治の両面において、マルクス主義とマルクス主義政党によって独占されていたものを奪いかえすことが可能になる ‥‥

      同上, p.27
    共産党は、この闘争という問題を考える場合に、闘争それ自体ではなく、一体あなたは、どのような階級に属しているのか、あなたは、プロレタリア階級を代表しつつ、この闘争を行なっているのかといった問いしか発しようとしておらず、闘争とは何かという、その戦略的側面のほうは、一向に問題になってこない。
    私にとっての関心は、むしろ抗争関係そのものの事件性です。
    一体だれが、何と、どのような手段で闘争に入っているのか、またなぜ闘争があり、その闘争は何を基盤としているかという点にあります。

      同上, p.41
    党が個人的意志の多様性を一つの集団的な意志へと変革させる
    そしてその変革によって、階級を主体として形成する。
    つまり、個人的な主体のようなものにしてしまう。
    だから、いわゆる()()()()()()()()()()()()が可能となるのです。
    プロレタリアートは存在する。なぜなら、党があるからという次第なのです。
    党という存在によって、また存在を介してプロレタリアートが存在しうるということになります。
    党とはしたがって、プロレタリアートの意識であると同時に、唯一の個人的主体ともいうべきプロレタリアートの存在の条件でもあるわけです。

      同上, p.42
    党というのが階層的なヒエラルキーを持った組織‥‥
    その強固なヒエラルキー的な秩序の中で、‥‥さまざまなものを排除したり、禁止したりすることで機能していました。
    それは、異端の要素というものを追放し、そうすることによって、活動家たちのさまざまな個人的意志を、一種の単一的な意志のもとに集結させるという組織にほかなりませんでした。
    そしてその単一の意志とは、指導者たちの、そして官僚的な意志であったわけです。

      同上, pp.42,43
    革命というものの、闘争というものの個人的な意志は、他の水準の意志とどうかかわるかといった問題は、私にとっても残された重要な課題であるように思います。
    そして、まさに現在、その多様なる意志が、伝統的左翼による闘争のヘゲモニーが破れた部分に
    噴出しはじめてもいるのです。

      同上, pp.43,44
    闘争における攻撃目標がたえず予言によって隠されてしまっていた‥‥
    だからその孤立した側面もまた予言の仮面のかげに姿を消してしまった。‥‥
    闘争の正統的な唯一の担い手は党しかないとみなされていたわけですから、またその党というものは、合理的なある一つの決断を下しうるヒエラルキーを持った組織であるわけですから、何か暗い狂気を含んだ部分とか、あるいは人間の活動の夜の部分という、まあ暗く孤立した部分というものが──いわゆる闘争には、当然、必然的に含まれていたにもかかわらず──それそのものとしてはどうしても視界に浮上してくることがなかったのです。
    たぶんニーチェか、あるいは理論ではなく文学的作品だけがそれを語ったにすぎません。‥‥
    だからこそ、理論の持つこのような不充分な局面を白日のもとにさらさねばなりません。
    哲学のみが唯一の規範的な思考だとする考え方を破壊する必要があるのです。
    そして無数の語る主体の声を響かせ、おびただしい数の体験をして語らせねばならないのです。
    語る主体がいつでも同じ人間であってはいけない。
    哲学の規範的な言葉ばかりが響いてはならない。
    ありとあらゆる体験を語らせ、言葉を失った者たち、排除された者たち、死に瀕した人たちに耳を傾ける必要があるのです。
    というのは、我々は外部におり、そうした人たちこそが闘争の暗く孤立した側面を実質的に扱っているからです。 そしてそうした言葉に耳を傾けるととこそが、今日西欧に生きる哲学するもののつとめであろうと思います。


    引用文献
      フーコー (1978) : 吉本隆明・フーコー [対談], 蓮賞重彦 [通訳]「世界認識の方法」, 『海』(7月号), 1978
        収載:吉本隆明『世界認識の方法』, 中央公論社, 1980, pp.5-48.