Up | 「数学教育学」 | 作成: 2020-03-17 更新: 2020-03-17 |
一つの主題の勉強は,この主題がわかるようになる勉強である。 わかるようにしていかねばならぬものは,以下のものである: この数学学習を動機づけ,さらに指導していこうというのが,「数学教育」である。 数学教育のゴールは,勉強が<わかる>に到達することである。 逆に言えば,数学教育は,勉強が<わかる>に到達しなければ,失敗である。 この数学教育に対し,これを自分の理念に回収しようとする者が現れる。 彼らは,自分を「数学教育学」と称し,数学教育を<自分が目指す体制を実現するための運動>に位置づける。 この構造は,「パルタイ」である。 どんな体制を目標にするかの違いから,いろいろなパルタイが現れる。 一つのパルタイの中にも,分派が形成される。 近年は,「グローバリズム立国」がこの種の目標の主流である。 この体制の員は,グローバル世界で活躍できる者である。 数学教育学は「問題解決能力」とか「リテラシー」を員たる者の能力と定め,この能力の陶冶を理論化しつつ実現しようとする。 この数学教育学の指導する数学教育は,勉強を壊すものになる。 わかったかどうかが,どうでもいいことにされるからである。 実際,「リテラシー」のときは,学校現場はこれを「コミュニケーション能力」と読み換え,生徒に話し合いをさせることを授業とした。 「生徒が目を輝かせ活発に話し合った!」で,メデタシメデタシとなる。 これは数学を知らない教員もできることなので,数学教育学は教員の取り込みに成功する。 そしてこれの犠牲になるのが生徒──というわけである。
しかし実際,「一般陶冶」教育には必ず「学力低下」が続くのである。 そして,「基礎基本」に方針転換される。 数学の立場は,<数学を勉強する者の自由>主義である。 しかし,数学教育学は,数学の勉強に意味をつける。 パルタイになるのである。 こういう事情であるから,生徒はドロップアウトしてよいし,反抗してよい。 ただし,彼らのドロップアウト・反抗は, なぜか。 ひとにとって,この問題構造を理解することは難いからである。 ドロップアウトする者・反抗する者も,問題が何であるかわからぬまま,ドロップアウトし,反抗するばかりである。 是非も無しと言うべし。 |