Up 『リゾーム』の著者はどこを間違っているか 作成: 2020-03-06
更新: 2020-03-06


    科学がする自然研究は,<自己組織化する系>を一つ画定してそれを研究する。
    『リゾーム』の著者の表現を用いれば,リゾームを一つ画定してそれを研究する。

    科学はそのリゾームを,『リゾーム』の著者の表現を用いれば「樹木の論理」で,理論化する。
    科学は,つぎのようには思わない:
        「リゾームには,リゾームの論理で!」

    翻って,「リゾームには,リゾームの論理で!」を唱えるのが,『リゾーム』である。
    しかし著者は,「リゾームの論理」(?) については何のアイデアももっていない。
    『リゾーム』はジャーゴン満載であるが,これは思考停止をごまかそうとして,こうなるのである。
    彼らは,子どもがだだをこねるふうに「樹木の論理」に反抗してみせるだけである。


    「樹木の論理」は,進化の歴史の産物である。
    この「進化」は,「論理の進化」,「人の進化」,‥‥ と系を溯って想うことになる「進化」である。
    「樹木の論理」は,とってつけたものようにあるのではない。
    「体制」も同じである。
    現体制は,とってつけたものようにあるのではない。

    『リゾーム』の著者は,革命屋である。
    「樹木の論理」や体制が革命で変わることを夢想する。
    この夢想ができるのは,「歴史」を思うことができないからである。
    現前は,進化の歴史の(はし)である。
    立体の面が物でないように,歴史の端である現前は物ではない。
    《他の物と置き換える》というふうにはならない。

    革命屋は,<現前>の存在論を間違えている者である。
    現前を革命するとは,進化の歴史づくりから始めるということである。
    彼らには,それがわからない。