Up 『リゾーム』とは 作成: 2020-03-04
更新: 2020-03-04


    (1) 『リゾーム』の類型
    『リゾーム』は,『リゾーム宣言』である。
    A.ブルトンの『シュールリアリズム宣言』と同型の,精神革命宣言である。

    『シュールリアリズム宣言』との違いは,宣言しようとする精神の内容である。
    即ち,『シュールリアリズム宣言』が<無意識/深層心理>であるのに対し,『リゾーム』は<「自己組織化する系」の存在論>である。
    『リゾーム』の中にある「精神分析」批判は,この差別化をしようとするものである。


    (2) 「リゾーム」
    「リゾーム」は,科学で謂う「自己組織化する系」である。
    これに尽きる。

    「リゾーム」の説明では,いかにも奇を(てら)ったようなことばづかいがいろいろ出てくる。 これらに対しては,科学的・数学的に汲むところは無い。


    (3) 「シニフィアンの覇権」
      p.68
    われわれは樹木には倦み疲れている。
    われわれはもはや樹木や根を、また側根をも信ずるべきではない、もうそうしたものを我慢しすぎてきたのだ。
    樹木状の全文化が、生物学から言語学に至るまで、そうしたものにもとづいているのだ。
    逆に、地下茎と空中根、雑草とリゾームを外にしては、何一つとして美しいもの、何一つとして愛に溢れたもの、何一つとして政治的なものはない。

      p.68-70
    樹木状システムは段階序列的システムであって、意味作用と主体化との中心、組織化された記憶、そしてまた中心的自動装置をも包含しているものである。
    それはつまり、対応するモデルときたら、そこでは或る要素が一個の高位の統一からのみ、そして主観への充当が予め設定されたつながりからのみ、その諸情報を受取るようなものだからだ。
    そのことは情報理論と電子機械との現下の諸問題においてはっきりと見てとれ、それらは一個の記憶ないし一個の中心的器官に権力を賦与しているかぎりにおいて、いまだに最も古い思考を保存しているのである。

    だからなんだというのだ。
    「樹木状システム」は,道具である。
    道具は,<自然>の写しではないし,<自然>の写しである必要もない。

      金槌は,リゾームのよう(?) であるべきか。
      否である。


    (4) 「エクリチュール」
    『リゾーム』の著者にとって,精神革命の実践は「エクリチュール」である。
    そこで,彼らの精神革命宣言は,エクリチュール論になる。

      エクリチュール論に向かうのは,彼らの思考癖というものである。
      この癖と無縁なことを後ろめたく思う必要はない。

    『シュールリアリズム宣言』では,エクリチュールは<無意識/深層心理>に順うべきものである。
    『リゾーム』では,エクリチュールは<「自己組織化する系」の存在論>に順うべきものである。

    実際には,彼らは,向かうべきエクリチュールの形を示すことができない。
    「ごく稀な成功例」を挙げて,《ゴールはある》を仄めかすだけである。
    この点も,『シュールレアリズム宣言』とまったく同じである。


    (5) 「地図」
    『リゾーム』の実践論は,内容の無いもの──有り体に言って,しょーもないもの──である。
    そのしょーもなさは,「構造的・生成的モデル」に「地図」を対置するところではっきりしてくる。
      p.40
    樹木の論理はすべてこれ複写と複製の理論である。‥‥
    この論理は、すっかり出来上ったものとして手に入れる何ものかを、超コード化する構造かあるいは支えとなる軸から出発して複写することに存している。
    機木は複写の数々を分節しかつ階層序列化するのだし,複写の方は樹木の葉のようなものなのだ。
     リゾームほまったく異なるもの、地図であって複写ではない。
    複写ではなしに、地図を作ること。‥‥
    地図が複写に対立するのは,それがすべてこれ、現実とギヤのつながった実験の方へ向いているからである。
    地図は自己に閉じこもった無意識を複製するのではない、無意識を構築するのだ。
    地図は諸分野の接続に協力し、器官なき身体の封鎖解除に、それら器官なき身体を地盤面上へと最大限に開いてやることに協力する。


    リゾーム──自己組織化する系──の簡単な例として,ムクドリの群飛 (集団の形の目まぐるしい変化) をとりあげよう。
    これの地図を書くとは,個々のムクドリの定位を3次元座標軸の導入を以て成し,群れの形の時間的変化を時間軸の追加によって表す,というものである。
    したがって,ムクドリの群飛の地図は,4次元になる。
    ──現実の地図にするときは,時間軸を<頁>に変えて,地図帳 (歴史地図) にする。
    この地図は,つくる者はいないし,つくってもありがたがる者はいない。
    (かさ)張る一方の,しょーもない地図だからである。

    ひとがムクドリの群飛を捉えたいと思うとき,その方法は,「地図」ではなく,「構造的・生成的モデル」である。
    集団の形を変化させているものは,フィードバックのダイナミクスである。
    そして「フィードバック」の内容は,《ムクドリの個々が,自分の近くの個 (複数) の動きに反応する》である。
    この反応の数式モデルをつくり,コンピュータでシミュレーションしてみる。
    そしてムクドリの実際の群飛がだいたい再現されたら,ムクドリの群飛が捉えられたとするのである。

    『リゾーム』の著者は,「構造的・生成的モデル」の思考法を「最古の思考にもとづくヴァリエーション」と言い,「地図」を正しい思考に定めるわけだが,彼らがなんと言おうと,ひとはこの場合「最古の思考にもとづくヴァリエーション」の方を択ることになる。
    「正しい・正しくない」が問題ではなく,「使える・使えない」が問題だからである。


    (6) 「東洋」
      pp.72,73
    奇妙なものだ。どんなに樹木が西欧の現実と西欧の全思考を支配してきたか。
     ‥‥‥
    東洋,とりわけオセアニアには,あらゆる点から見て樹木という西欧的モデルに対立するリゾーム的モデルのごときものがありはしないか?

    西欧インテリの「東洋」幻想である。
    自分のことを《「西欧」に疎外されている》と思う者は,「東洋」幻想をつくる。


    (7) 「数学」
      p.84
    科学はしたい放題にさせておけば完全に狂ってしまう ‥‥
    数学を見るがいい,それらは科学なんかじゃなくて,驚異的な隠語。それもノマド的な隠語なのだ。

    これも,「東洋」幻想の類の勘違いである。
    そもそも,数学は,工学・科学に供する言語として開発されてきた言語である。

    数学は,形式言語である。
    文字 (記号),語生成規則,文生成規則,公理,推論規則を構え,ここから数学の生成が開始される。
    数学の実質的な対象は,「数」のみである。──これは構成される。
    「数」以外の対象は,「条件‥‥を満たすもの」というふうに導入 (定義) される。
    数学に対して「形式の学」の言われ方がされるが,以上がこのことばの意味になるものである。

    科学を「樹木状システム」の理由で退けたいのなら,「樹木状システム」の最たるものが数学である。
    「それらは科学なんかじゃなくて,驚異的な隠語。それもノマド的な隠語なのだ」の言は,著者が己の浅はかを曝すしくじりである──ひとには気づかれずに済むかも知れぬが。


    (8) 宣言
      p.88
    n人で、nマイナス1人で書くこと、スローガンの数々で書くこと──リゾームになり根にはなるな、断じて種を植えるな!蒔くな、突き刺せ!
    一にも多数多様にもなるな、多数多様体であれ!
    線を作れ、決して点は作るな!
    スピードは点を線に変容させる!速くあれ、たとえその場を動かねときでも!
    幸運(シャンス)線、ヒップ(アンシュ)の線、脱出線。
    あなたの裡に将軍を目覚めさせるな!
    地図を作れ、そして写真も素描も作るな!
    ピンク・パンサーであれ、そしてあなたの愛もまた雀蜂と蘭、猫と狒狒のごとくであるように。

    彼らは,自分自身つかめていないことを,スローガンに掲げる。
    このスタンスに彼らはなぜ自足していられるのか。
    体質が革命屋だからである。
    革命屋は,羅針盤をポーズし,これだけで大きな仕事をやっていると思う者である。
    自分は進路を示した,後は<人民>が中身を埋めるばかり」というわけである。

    この宣言に応える/応えられる者はいない。
    荒唐無稽を言っているからである。
    荒唐無稽は,うっちゃっておくのみである。



    引用文献
    • G. Deleuzee, F. Guattari (1976) : Rhizome
      • 豊崎光一 [訳]「リゾーム」, 『エピステーメ』臨時増刊号, 1977