Up | 法の意味固定と付和雷同 | 作成: 2020-06-05 更新: 2020-06-05 |
それは,多様な個の衝突をダイナミクスにして自己組織化する系である。 系の現前は,「衝突の均衡」を表している。 この系は,法──系の員が自らに強いるべき行動規範──を現すことになる。 この法は,形式である。 形式の意義は,「意味を固定しない」である。 自由の担保である。 実際,法の要諦は自由の担保である。 しかし何かの契機で,員における<法の意味固定とそれへの付和雷同>が暴発することがある。 法が「マニュアル」の形になることを,員が好むようになる。 逸脱者を許さない警察の役を自ら振る舞うことを,員が好むようになる。 これが,「全体主義」である。 法がそのまま全体主義なのではない。 形式を立てること (抽象) がそのまま全体主義なのではない。 繰り返すが,形式の意義は,「意味を固定しない」である。 形式は,その立場において反マニュアル主義・反全体主義である。 実際,賢い立法者は,自由をできるだけ担保しようとする。 特に憲法は,そのようにつくられるものである。 何とでも解釈できるようになっている。 「状況に応じて都合よく解釈せよ」と言っているのである。 数学は,これを「形式の学」と言う者がいるが,数学をする者は特定の意味をきっちり頭に描いている。 しかし記述は,形式主義で臨む。 自由をできるだけ担保しようとするからである。 自由をできるだけ担保しようとするのは,自由が好きだからである。 いまの社会は,すべてのことに「マニュアル」が備わっていることが,正義とされる。 ひとは,<いいかげん>を嫌う。 自由の余地を見つけたら,一つの意味できっちり埋められることを望む。 そして,一つの意味がいつもきっちり執行されることを望む。 「コンプライアンス」主義である。
いま悪い意味のことばになっているのは,加減を智慧としなくなったからである。 実際は,ひとはマニュアル&コンプライアンスの社会に息苦しさを感じている。 しかしその息苦しさは,自分の首を絞めている自分がもとである。 《自分で自分の首を絞めて息がつまる》 これに対し何と言うべきか。 「世話ねえや」である。 |