Up | 神 | 作成: 2020-06-08 更新: 2020-06-08 |
人の系では,員に共通に係わる存在に,意味がつけられる。 存在を意味づけるとは,存在が<現象>になるということである。 ──ひとには,意味づけしていない存在は見えていない。
ひとは,<現象>に原因・理由を措こうとする。 いまの時代だと,「原因・理由の措定は,科学的探求を以て」となる。 これより前の時代は? 「神」が立てられた。 ──「これは,神の仕業である!」 不可思議な現象は,不可思議で蓋をするのみである。 その蓋として,「神」が発明された。 アニミズムは,存在のダイナミクスを擬<生き物>化し,それを神とした。 この神は八百万の神となり,色々な生き物が神にされる。 実際,存在のダイナミクスに代わる神は,人格神では無理である。 人格神だと人の心を措くことになり,一方,不可思議は人の心を超えるものだからこそ不可思議なのである。 しかし,人間と森羅万象すべてをひとりの人格神に負わせる宗教が,西洋に登場した。 キリスト教である。
キリスト教は,理屈がめんどうになる。 人間社会は,いいこと・わるいことのごちゃまぜである。 これを神の計らいにしなければならない。 世のひどい不幸や不公平を神の計らいとして説明するためには,「人のうかがい知れない神の深慮」を立てるしかない。 しかし「何だ,その深慮って?」 この努力と屁理屈は,科学の進歩とともに,放棄されるようになる。 そしてこの放棄は,西洋文学・哲学の一大作品群を生むことになった。 これらの事は,「八百万の神」の者には対岸の出来事である。 「神が死んだ」だの「不条理」だのは,対岸の声である。 特に日本人にとっては,そうである──根っこが「八百万の神」なので。 しかし日本の「知識人」は,文明開化以来の西欧コンプレックスを身につけた者なので,自分をこの対岸の声に同化させてきた。 彼らとって,西欧はいつも指針を求める先である。 西欧コンプレックスの者は,自文化に目が行かない。 「物自体─現象」の存在論などは,仏教の「色即是空空即是色‥‥」でとっくの昔から知られている。 「八百万の神」の者にとって──「色即是空空即是色‥‥」の者にとってもそうだが──「不条理」は世界を考える出発である。 西欧の方から「不条理」の声がいまさら聞こえてくるのは,「神の計らい」の考えを引き摺ってきたからである。 このときの「不条理」は,「善悪」が立たないことの謂いである。 「八百万の神」の者に,「善悪」は無い。 「八百万の神」は存在のダイナミクスの写しであり,そして存在のダイナミクスに「善悪」は無いからである。 キリスト教文化の科学者は,科学と神の両立が己の問題になる。 「八百万の神」文化の者は,「八百万の神」を科学の主題に還すだけのことである。 |