Up サルトル(段階) 対 レヴィ=ストロース(構造) 作成: 2017-01-02
更新: 2017-01-03


    数学・科学は,自ずと構成主義になるが,これは構造主義である。
    哲学にも「構造主義」があり,これの方は,「サルトルとレヴィ=ストロースの論争」に溯る。
    それは,こうである:
      《 サルトルの「段階」対 レヴィ=ストロースの「構造」》


    サルトルは,マルクス主義の史的唯物論に立って,社会形態の違いを段階論で考える。
    二つの社会形態A, Bの違いは,一方が他方より「未開」ということであり,格の違いになる。
    レヴィ=ストロースは,文化人類学の相対主義に立つ。
    A, Bは,同格である。

    では「同格」は,AとBがどのように相対する様を謂うのか。
    このとき,レヴィ=ストロースが導入するのが,「構造」である。
    A, Bの「同格」は,構造としてのA,Bの「相互独立」を謂う。

    A,Bの構造に対し「相互独立」を見る者は,一つの視座である。
    そして,この視座の設定は,二つの構造を埋め込む大きな構造の設定に他ならない。
    この<大きな構造>は,論理的要請である。
    レヴィ=ストロースの探求プログラムは,この<大きな構造>をゴールとすることになる。
    実際,これに到達することは,「社会形態」の一般的記述枠に到達することである。




    「レヴィ=ストロース」とは,どんな方法論か?
    「段階論批判」である。
    史的唯物論は,段階論であるから,レヴィ=ストロースが批判するものになる。
    そして同じ構えで,レヴィ=ストロースは,科学に対し呪術を「未開」とする考え (常識) を批判する。
    即ち,科学と呪術を同格のものとする:

     "La pensée sauvage", Paris, Plon, 1962.
     『野生の思考』 大橋保夫訳, みすず書房, 1976.
     
    pp.17,18
     だからといってわれわれは、呪術を科学の片言とする俗説〈もっとも、それが位置する狭い展望の範囲では容認しうるものであるが) に戻るつもりはない。
    なぜならば、 呪術を技術や科学の発達の一時期、一段階にしてしまうと、呪術的思考を理解する手段をすべて放(てき)することになる からである。
    呪術は本体に先立つ影のようなものであって、ある意味では本体と同様にすべてがととのい、実質はなくても、すぐあとにくる実物と同じほどに完成され、まとまったものである。
    呪術的思考は、まだ実現していない一つの全体の発端、冒頭、下書、ないし部分ではない。
    それ自体で諸要素をまとめた一つの体系を構成しており、したがって、科学という別の体系とは独立している。
    この両者が似ているのはただ形の類似だけであって、それによって呪術は科学の隠喩的表現とでも言うべきものになる。
    それゆえ、呪術と科学を対立させるのでなく、この両者を認識の二様式として並置する方がよいだろう。

    それらは、理論的にも実際的にも成績については同等ではない (呪術もときには成功するので、その意味で科学を先取りしてはいるけれども、成績という点では科学が呪術より良い成績をあげることは事実であるから)。
    しかしながら、 両者が前提とする知的操作の種類に関しては相違がない。
    知的操作の性質自体が異なるのではなくて、それが適用される現象のタイプに応じてかわるのである。


    pp.21,22
    Nous ne revenons pas, pour autant, à la thèse vulgaire (et d'ailleurs admissible, dans la perspective étroite où elle se place), selon laquelle la magie serait une forme timide et balbutiante de la science : car on se priverait de tout moyen de comprendre la pensée magique, si l'on prétendait la ré- duire à un moment, ou à une étape, de l'évolution technique et scientifique.
    Ombre plutôt anticipant son corps, elle est, en un sens, complète comme lui, aussi achevée et cohérente, dans son immatérialité, que l'être solide par elle seulement devancé.
    La pejisée magique n'est pas un début, un commen- cement, une ébauche, la partie d'un tout non encore réalisé ; elle forme un système bien articulé ; indépendant, sous ce rapport, de cet autre système que constituera la science, sauf l'analogie formelle qui les rapproche et qui fait du pre- mier une sorte d'expression métaphorique du second.
    Au lieu, donc, d'opposer magie et science, il vaudrait mieux les mettre en parallèle, comme deux modes de connaissance, inégaux quant aux résultats théoriques et pratiques (car, de ce point de vue, il est vrai que la science réussit mieux que la magie, bien que la magie préforme la science en ce sens qu'elle aussi réussit quelquefois), mais non par le genre d'opérations mentales qu'elles supposent toutes deux, et qui diffèrent moins en nature qu'en fonction des types de phénomènes auxquels elles s'appliquent.

    p.20
    科学的思考にはニつの様式が区別される。
    それらは人間精神の発達段階の違いに対応するものではなくて、科学的認識が自然を攻略する際の作戦上のレペルの違いに応ずるもので、一方はおおよそのところ知覚および想像力のレペルにねらいをつけ、他方はそれをはずしているのである。
    それはあたかも、新石器時代の科学であれ近代の科学であれ、あらゆる科学の対象である必然的関係に到達する径路が、感覚的直観に近い道とそれから離れた道と二つあるかのごとくである。

    p.24
    c'est qu'il existe deux modes distincts de pensée scientifique, l'un et l'autre fonction, non pas certes de stades inégaux du développement de l'esprit humain, mais des deux niveaux stratégiques où la nature se laisse attaquer par la connaissance scientifique : l'un approximativement ajusté à celui de la perception et de l'imagination, et l'autre décalé ; comme si les rapports nécessaires, qui font l'objet de toute science — qu'elle soit néolithique ou moderne — pouvaient être atteints par deux voies différentes : l'une très proche de l'intuition sensible, l'autre plus éloignée.