Up 「人間喜劇」を書く 作成: 2013-03-24
更新: 2013-03-24


    批判は,批判対象を貶めるものになりやすい。
    それは,批判対象と同じ土俵に自分を立たせるからである。
    同じ土俵に立つと,地所争いになる。
    争いに勝とうとして,批判対象を貶めることをやる。

    この批判の場合,批判対象を自分の横に見ている。
    ところで批判の視座としては,この<横から見る>に対し,<上から見る> (鳥瞰) があり得る。

    <上から見る>では,地所争いはなくなる。
    争いに勝つために批判対象を貶めるということも,無用のことになる。
    そして,<上から見る>とき,批判対象はそれ固有に一生懸命であることが見えてくる。
    批判対象に愛情がもたれてくる。
    この位相で書かれる批判は,「人間喜劇」である。


    吉本隆明は,アンチテーゼ型の批判をひとしきりやった後,「アンチテーゼの不毛」を言って,理論を構築する者になることを宣言する。 (例えば,『共同幻想論』の序。)
    吉本隆明は,「アンチテーゼの不毛」から直ちに理論に跳ぶ。
    <「人間喜劇」を書く>を理論と併行するということは,しなかった。

    <「人間喜劇」を書く>をやっておかない──このことの含蓄は?
    吉本隆明のアンチテーゼ型批判の対象になったものは,<有ることが間違いだったもの>として留められることになる。
    これは,吉本隆明自身に返ってくる。
    自分は,<有ることが間違いでないもの>然として生きていかねばならない。
    この窮屈を負っていくことになる。

     註 : もっとも,この窮屈さ加減が,吉本隆明を「吉本隆明」にしているものである。
    この窮屈から自分を解放しようとしたら,「吉本隆明」は無くなる。