Up 愚の退治 作成: 2016-03-11
更新: 2016-03-11


    『情況へ』(宝島社, 1994) に,「情況への発言」(『試行』51号〜73号 (1979〜1994)) が収められている。
    「情況への発言」は,吉本が賢者の構えで愚者を罵倒するスタイルになっている。

    まさに罵倒であるので,読む方は「これはあぶないなあ」とハラハラして読むふうになる。
    また,「罵倒される方は,よほど面食らい,そして罵倒されたままの格好ではいられないから,対応策をいろいろ考えねばならないだろうなあ」と想像されて,罵倒される側への同情を禁じ得なくなる。
    また,別に噛みつかなくてもよかろうほどの者を執拗にやっつけるのを見ると,「これは人を萎縮させるやり方で,よくないなあ」の思いになる。

    どうしてこうなるのか。
    ロジックとして,つぎのように思っていることになる:
      罵倒は,有効。
      すなわち,賢は,愚を罵倒することで,愚をまいらせることができる。
      いま行っていることは,賢が愚をまいらせる闘いである。


    賢愚は,善悪であり,白黒である。
    白黒を立てるのは,イデオロギーである。
    「情況への発言」の吉本は,イデオロギーである。

    白黒でものを考えるのは,若さである。
    経験値は,白黒から脱けさせる。
    単純に,歳をとれば,白黒を脱ける。

    本来なら,『最後の親鸞』(春秋社, 1981年) の吉本は,この相でなければならない。 なぜなら,「最後の親鸞」は,「是非も無し」の境地のことであるから(註)
    しかし吉本は,こうではない。

    吉本にとっては,「是非も無し」は,「大衆」に於けるものである。
    吉本は,インテリを「大衆」から区別する。
    共産主義革命は必ずインテリの弾圧・虐殺になるが,インテリに対する吉本の嫌悪・容赦の無さはこれと同タイプである。
    吉本は,この体質を引き摺っている。
    これが,吉本を独特のものにしている。
    この体質を考えに入れないと,吉本を理解することはできない。

    吉本においては,「最後の親鸞」と「情況への発言」が共存する。
    この共存を見ることが,「吉本隆明」を見る仕方である。



     註 : 吉本は「最後の親鸞」を持ち上げるが,「最後の親鸞」は,歳をとったらだれもが至るところの「是非も無し」の境地に過ぎない。
    思想に,すごい思想など無い。
    有るのは,メチャクチャな思想である。
    メチャクチャが収まることが,思想の終点である。
    思想の終点は,単にゼロに戻ったということである。