Up はじめに 作成: 2013-03-14
更新: 2013-03-16


    菅野覚明著『吉本隆明──詩人の叡智』(講談社) が,先日出版されたところである。
    シリーズ「再発見 日本の哲学」のうちの一つとなっている。

    これを読み,そして書名に返って,なるほどと感心した。
    「吉本隆明」はこのような主題なのだと,得心したわけである。

    わたしにとって「吉本隆明」は,『擬制の終焉』(現代思潮社) であった。
    そしていま,菅野覚明『吉本隆明』から吉本隆明のテクスト「なぜ書くか」を教えてもらうことになった。
    習慣的な<書く>からは,「なぜ書くか」の問いは出て来ない。
    「なぜ書くか」の問いが出て来るときのその<書く>は,<詩を書く>である。
    「吉本隆明」を論じることは,「詩人」を論じることである。

       わたしはなぜ文学に身を寄せてきたのだろうか? わたしはなぜ一般に文学とよぱれている対象のほかにも表現を移したりしながら、〈書く〉者であることをやめないのだろうか? 表現者 (書くもの) という位相は、なぜ個人の内部で存続しうるのだろうか?
     かつては、わたしもこの種の問いかけをじぶんに課すことを知らず、ただ知識にたいする欲求や感性的な解放だけをその都度味いながら無意識に〈書い〉ていた。‥‥
     しかし、ここ数年来、なぜ文学に身を寄せるか、なぜ〈書く〉かという素朴な問いをじぶんに発するようになった。 (「なぜ書くか」p.652)


    いま,わたしの「吉本隆明」は,「なぜ書くか」と『擬制の終焉』のセットである。
    「なぜ書くか」を以て書いて現れるのが『擬制の終焉』,という受け取りである。
    他は全く無視というわけであるが,コアの捉えならこれでよいと思う。

    そしてこれを機に,わたしの「吉本隆明」を書いておくことにした。