Up 哲学の窮屈 作成: 2013-03-19
更新: 2013-03-23


    菅野覚明『吉本隆明──詩人の叡智』の第3章「詩的思想の展開」は,吉本隆明の「哲学」の解説である。
    「詩的思想」のことばは,吉本隆明「ラムボオもしくはカール・マルクスの方法に就いての諸註」(『擬制の終焉』, pp.347-358) の中に出てくる。

    この章を読んで思ったのは,「ずいぶんと窮屈な哲学に従ってしまったんだなあ」である。
    学生の頃はこんなふうな受け取り方はなかったので,いまのこの思いはわたしが年取ったせいである。

    「窮屈な哲学」とは,「疎外」と「唯物論」である。

    (1) 「疎外」
    「疎外」は,つぎの逆溯行の図式で立てられる概念である:
        歴史 ← 弁証法 ← 疎外
    この「疎外」の哲学に即くことは,人の為すことすべてを「疎外」で説明することである。
    吉本隆明は,これを行う者である。

    一つの<疎外>を立てることは,<疎外されるものA>と<Aの疎外態B>の二つの存在を立てることである。
    これは,フィクションである。

      これをフィクションと言えないのは,「王様は裸」を言えないのと同じである。
      裸の王様を裸だとしないのは,《難しく考えねばならない》と思うからである。
      《難しく考えねばならない》を停止すれば,「王様は裸」があたりまえに言える。

    吉本隆明の理論構築は,このフィクションを原理にするものである。
    『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』は,このようになっている。

    『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』は,「固有時の対話」と同じである。
    それは,詩である。
    これを学術として読もうとすれば,「疎外」の概念枠組がちらついてきたところで,わたしは早々と降参してしまうことになる。
    しかし,詩と定めるならば,読めるようになる。

    わたしは,別におかしなことをここで言っているわけではない。
    わたしたちは,学術的に正しいかどうかで,本を読んだり,歌を聴いたりするわけではない。
    学術的には荒唐無稽な内容でも,楽しめる。
    楽しんでいるそれを何と呼ぶべきか?
    わたしは「詩」という言い方を,ここではしているわけである。


    (2) 「唯物論」
    吉本隆明は,マルクスをとることを決めた者である。
    即ち,マルクスに合わせた理論づくりを決めた者である。

    なぜマルクスなのか?
    そういう時代だったのである。
    吉本隆明は,時代をはみ出るふうの思想家タイプではない。
    時代密着タイプの思想家である。

    マルクスをとることは,「唯物論」をとることである。
    先に挙げた「疎外」も,そうである。

    しかし,「唯物論」では「詩的思想」の論はやれない。
    そこで吉本隆明は,「逆立」という方便をつくり出す。
    「逆立」は,理論でもなんでもない。
    オマジナイである。

    一つの哲学をとることで自分を窮屈にし,窮屈をオマジナイでやり過ごす。 そして,これが身についてしまう。
    これは,思想をやる者がふつうに陥ってしまうことである。
    吉本隆明も,これの例外ではない。──否,典型というべきである。


     註 : 数学の理論構築を例にして,「逆立」を解説する。
    数学の理論は,それぞれ<卑近>が出自である。
    いま一つの<卑近>に対しこれの数学をつくろうとする。
    <卑近>は,数学的命題になる。
    最初は大雑把な記述になるこの数学的命題を,要素的な命題へと論理的に還元する。
    還元は,上位命題に<厳格な記述の仕方>をフィードバックする。
    この還元を,溯行が行き着くところまで続ける。
    行き着いたところで,今度は理論の構成に入る。
    還元の到達点を理論の出発点し,還元の逆を推論として進め,<卑近>の命題へと下降していく。
    理論構築と理論は,形として,互いに他の逆立ちのように見える。
    吉本隆明は,この「逆立」──「還元と推理の逆立ち」──をマルクスの『資本論』に認めようとする。
    ただし,数学だと「還元と推理の逆立ち」はある程度説明できる内容になるが,『資本論』はそのようにはならない。
    吉本隆明は,「逆立」をさらにマルクスの「唯物論」にまで拡げようとする。
    マルクスの「意識は意識的存在以外の何ものでもない」の逆立として自分の「存在は意識がなければ意識的存在であり得ない」を立てるわけである。
    ここで吉本隆明が「存在は意識がなければ意識的存在であり得ない」を要するのは,「詩的思想」を「唯物論」と矛盾しないものとして立てたいためである。