Up 引っ込みがつかない 作成: 2013-03-17
更新: 2013-03-18


    批判を「自分が正しい」でやると,「どうやらしくじったようだ」になったときに困ることになる。

    自分のいまの立論は,後で必ず「どうやらしくじったようだ」になる。
    経験が浅いと,これがわからないので,「自分が正しい」をやってしまう。
    特に,若いうちは,「自分が正しい」をやってしまう。

    「どうやらしくじったようだ」になったとき,ひとは《引っ込みのつかない立場に自分は立ってしまっている》の思いになる。
    批判を闘いにして,多数を観客に巻き込むことをやってきた者は,なおさらである。
    そして,自分のしくじりの糊塗に進んでしまう。

    これは矛盾である──矛盾の構造はつぎのようになる:
      自分は,習慣を拒否する行動として,<書く>をとった。
      《引っ込みがつかない》は,習慣の一つである。
      そしていま,《引っ込みがつかない》の構えをとる者に自分を成してしまっている。

    吉本隆明の場合,この問題はどういうふうになったか?
    吉本隆明は,「転向論」でもって,《引っ込みがつかない》の思いで自分のしくじりの糊塗をする者たちを名指しで批判してきた者である。
    吉本隆明は,「転向論」が自分に返りこれに復讐される者にはなっていないのか?

    わたしは彼の数点の著書しか読んでいない者なので,判断はできない。
    よって,この論の続きは,保留である。
    ここでは,論点のメモということで,一節を設けておく。