Up 論理・体系・理論 作成: 2013-03-16
更新: 2013-03-16


    「吉本隆明」の<書く>は,<詩を書く>である。
    <詩を書く>は,<習慣の書き方を拒みつつ「本当のこと」を書く>である。
    書くことになるものは,観念世界である。

    観念世界は,「本当のこと」だと証しつつ書く。
    推論・論証が,観念世界構築の方法である。
    そこで,できあがる観念世界は,一つの論理体系である。
    さらにいえば,理論である。

    「詩」は,「感情表現」のイメージがある。
    論理を拒否し,意味を拒否するイメージがある。
    しかし,「吉本隆明」が書く詩は,理論である。
    理論であっても「詩」であるのは,あくまでも観念世界だからである。

    ここまでをまとめておこう:
    詩の観念世界に対する現前 (実在世界) は,習慣の世界である。
    詩は,習慣の拒否であり,よって現前の拒否である。
    これは,観念世界の構築になる。
    そして,この構築行為には自己確証が含意にある。
    ──そうでなければ,構築行為はただ無意味である。
    自己確証は論理的行為であり,論理体系/理論をつくる。


    しかし,これは「詩」のことばの用法のひどい逸脱にならないか?
    実際,たとえば数学は「詩」だというふうにならないか?

    わたしは,つぎのように答える者である:
      「習慣の拒否・現前の拒否をコンテクストにして構築された数学は,詩である。」
    すなわち,「詩」は,「数学」と横に並ぶカテゴリーではない。
    「詩」かどうかを判じる規準は,書く主体の精神的位相であり,書かれる内容ではない。

    こういうわけで,つぎの結論に至る:
      「吉本隆明」の著作は,詩である。
      『著作集』は,詩集である。