Up 作成: 2013-03-14
更新: 2013-03-16


    習慣に抗う<書く>は,<書く>の習慣 (社会) とも抗うものになる。
    <書く>の習慣に抗うこの<書く>が書くものは,何と呼ぶことになるか?
    「詩」である。
    吉本隆明の詩論が,ここで符合する。

    「詩」を書くことは,<書く>の習慣 (社会) とつぎの関係になることである:

     「 わたしは、きっと、文学の世界に身を寄せても文学者の世界に身を寄せることはもっとも少ない人間であるとおもう。 また、思想の世界に身を寄せても、思想者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間である。 また、職業の世界に身を寄せても職業者の世界に身を寄せることのもっとも少ない人間であるにちがいない。 」 (p.656)

    吉本隆明は,学術も行う。
    上に模すと,この場合はつぎのようになる:

     「 わたしは、きっと、学術の世界に身を寄せても学術の世界に身を寄せることはもっとも少ない人間である。 」

    「身を寄せても身を寄せることはもっとも少ない」の関係は,詩人が習慣社会に対し一方的に距離をおくという関係ではなく,習慣社会も詩人に対しては距離をおくという関係である。
    実際,習慣社会は,詩を持ち込まれときには,持て余すしかなく,無視するのみとなるところである。
    習慣を拒む者は習慣の側からも拒まれる者になるのが道理である。

    吉本隆明の行う学術は,学術の習慣において規格外・仕様逸脱になる。
    それは,詩である。
    学術の習慣が応じられるものでなく,学術の習慣はこれを無視する。

    どういうことか?
    学術の習慣が応じる学術は,これの規格・仕様に身を合わせてきたものである。
    規格・仕様に身を合わせるとは,<先行研究に上乗せ>の形に自身を整えるということである。 そして,<先行研究に上乗せ>の形に自身を整えられるのは,比較的こじんまりした領域ということになる。
    「本当のこと」を言おうとする詩は,ひどく原理的で,そしておおぶろしきを拡げるものになる。
    原理的・おおぶろしきには,「先行研究」にぴったりはまるものなどない。
    原理的・おおぶろしきは,「上乗せ」のこじんまりした形をとれない。
    そしてこれを承知で無理矢理規格・仕様に合わせようとするのは,それこそ「詩」の拒否するところである。