Up | 詩 | 作成: 2013-03-14 更新: 2013-03-16 |
<書く>の習慣に抗うこの<書く>が書くものは,何と呼ぶことになるか? 「詩」である。 吉本隆明の詩論が,ここで符合する。 「詩」を書くことは,<書く>の習慣 (社会) とつぎの関係になることである:
吉本隆明は,学術も行う。 上に模すと,この場合はつぎのようになる:
「身を寄せても身を寄せることはもっとも少ない」の関係は,詩人が習慣社会に対し一方的に距離をおくという関係ではなく,習慣社会も詩人に対しては距離をおくという関係である。 実際,習慣社会は,詩を持ち込まれときには,持て余すしかなく,無視するのみとなるところである。 習慣を拒む者は習慣の側からも拒まれる者になるのが道理である。 吉本隆明の行う学術は,学術の習慣において規格外・仕様逸脱になる。 それは,詩である。 学術の習慣が応じられるものでなく,学術の習慣はこれを無視する。 どういうことか? 学術の習慣が応じる学術は,これの規格・仕様に身を合わせてきたものである。 規格・仕様に身を合わせるとは,<先行研究に上乗せ>の形に自身を整えるということである。 そして,<先行研究に上乗せ>の形に自身を整えられるのは,比較的こじんまりした領域ということになる。 「本当のこと」を言おうとする詩は,ひどく原理的で,そしておおぶろしきを拡げるものになる。 原理的・おおぶろしきには,「先行研究」にぴったりはまるものなどない。 原理的・おおぶろしきは,「上乗せ」のこじんまりした形をとれない。 そしてこれを承知で無理矢理規格・仕様に合わせようとするのは,それこそ「詩」の拒否するところである。 |