Up | 大量書きの意味 | 作成: 2013-03-14 更新: 2013-03-18 |
習慣は山ほどある。 個々に《本当のことを書いて示す》をやっていたら,<書く>は際限のないものになる。 書く量の多い者は,際限のない<書く>が性癖になった者である。 このタイプの<書く>は,分野が多岐にわたることでそれとわかる。 この「際限のない<書く>」は,吉本隆明では「小刻み」「懸垂」のことばを用いたつぎの言い方になる:
ちなみに,「小刻み」「懸垂」の単位は,時代によって変わる。 紙媒体の時代は,テクストが最小単位になる。 いまのネット媒体の時代には,節や章が単位になれる。 実際,今日は「つぶやき」が最小単位になる。 なお,吉本隆明が「小刻み」を解釈して言うところの「生存することの辛さの感じと対応している」は,わたしなら身も蓋もなく「時間との格闘の作業を効率的にしようとしたら,この方法になる」と言うところである。 わたしの目には,吉本隆明の書くものに<体裁>がいつもちらついて見える。 そこで翻って,<体裁>の意味を考えることになる。 上の文章の場合だと,吉本隆明に<体裁>をとらせているのは,《隙をみせたら突いてくる<敵>に対し,自分の作品がその都度雑駁》の自覚である。 この雑駁は,突かれてしかるべきとなる。 そこで,先手を打っておこうとなり,「生存することの辛さの感じと対応している」の言い回しになる。 あるいは,「生存することの辛さ」に「隙をみせたら突いてくる<敵>」を含めて読んでやるべきか。 さて,大量書きをやると,繰り返しパターン (汎用パターン) が現れてくる。 これは,<形式>である。 <形式>が浮かぶと,これまで書いてきたものを<形式>でもって再構成するという思考になる。 そしてこれを行うと,一つの論理体系/理論ができあがる。 吉本隆明の『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』は,こうしてできあがったものである。 この場合,テーマ/標題は,論述作業の出発ではなく,結果である。 |