Up 大量書きの意味 作成: 2013-03-14
更新: 2013-03-18


    「吉本隆明」を考える上で,「書く量の多さ」は重要な視点になる。

    習慣は山ほどある。
    個々に《本当のことを書いて示す》をやっていたら,<書く>は際限のないものになる。
    書く量の多い者は,際限のない<書く>が性癖になった者である。
    このタイプの<書く>は,分野が多岐にわたることでそれとわかる。

    この「際限のない<書く>」は,吉本隆明では「小刻み」「懸垂」のことばを用いたつぎの言い方になる:
    この世界の空気を大きく吸いこみ、強く吐きだすという形はしだいに影をひそめ、この世界の空気を小刻みに吸いこみ小刻みに吐きだすのだが、わたしが覚えこんだことは、吐く息は、おわりのほんの少しを懸垂状態のままにして、つぎの吸いこみに接続するという方法である。 このことは、おそらく生存することの辛さの感じと対応している。 そして、きっとそのために、わたしはわたしの〈書く〉ものについて峠をこしたとか、完成されたとかいう感じをもったことはなく、いつも過渡状態にあるような懸垂感しか覚えたことはない。 (「なぜ書くか」p.658)

    ちなみに,「小刻み」「懸垂」の単位は,時代によって変わる。
    紙媒体の時代は,テクストが最小単位になる。
    いまのネット媒体の時代には,節や章が単位になれる。
    実際,今日は「つぶやき」が最小単位になる。

    なお,吉本隆明が「小刻み」を解釈して言うところの「生存することの辛さの感じと対応している」は,わたしなら身も蓋もなく「時間との格闘の作業を効率的にしようとしたら,この方法になる」と言うところである。
    わたしの目には,吉本隆明の書くものに<体裁>がいつもちらついて見える。 そこで翻って,<体裁>の意味を考えることになる。
    上の文章の場合だと,吉本隆明に<体裁>をとらせているのは,《隙をみせたら突いてくる<敵>に対し,自分の作品がその都度雑駁》の自覚である。 この雑駁は,突かれてしかるべきとなる。 そこで,先手を打っておこうとなり,「生存することの辛さの感じと対応している」の言い回しになる。
    あるいは,「生存することの辛さ」に「隙をみせたら突いてくる<敵>」を含めて読んでやるべきか。


    さて,大量書きをやると,繰り返しパターン (汎用パターン) が現れてくる。
    これは,<形式>である。
    <形式>が浮かぶと,これまで書いてきたものを<形式>でもって再構成するという思考になる。
    そしてこれを行うと,一つの論理体系/理論ができあがる。

    吉本隆明の『共同幻想論』『言語にとって美とは何か』は,こうしてできあがったものである。
    この場合,テーマ/標題は,論述作業の出発ではなく,結果である。