「学を立てる」の意味は,「探求主題を立てる」である。
禅の探求主題は,「仏性」である。
学と宗教では,「仏性」の論じ方が違う。
宗教が「仏性」を論ずるとき,「仏性」はわかっているものである。
僧は,説法を以て衆生を救うことが役割である。
そして,「説法を以て衆生を救う」には「仏性をわかっている者として振る舞う」が含意される。
一方,学が「仏性」を論ずるとき,「仏性」は探求の対象であり,不明のものである。
禅は,宗教ではなく,学である。
禅僧が衆生と関係をもつ形は,「托鉢」であり,「説法を以て衆生を救う」ではない。
では,禅はなぜ宗教になるのか。
ひとは,何かをありがたがるという形によっても,救われるものだからである。
禅僧は,衆生からありがたがられる存在になることで,衆生を救っていることになる。
そしてこの場合は,俗世と交わらない存在然としているのがよいのである。
「仏性」は,不明である。──実際,それはことばに過ぎない。
しかし,禅の師は,「仏性」をわかっている者としてパフォーマンスしなければならない。
パフォーマンスの形は,「煙に巻く」である:
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『趙州録』
問、 祖仏近不得底、是 什麽人?
師云、不是 祖仏。
学云、争奈<近不得>何。
師云、向你道「不是祖仏 不是衆生 不是物」,得麽?
学云、是 什麽?
師云、若有名字、即是「祖仏・衆生」也。
学云、不可 只与麽 去也。
師云、卒未 与你 去在。
問う、 「祖仏の近づき得ざる底、是れ什麽人(なんびと)か?」
師云く、「祖仏ならず。」
学云く、「<近づき得ざる>を争(いかで)か奈何(いかん)せん。」
師云く、「你に向いて道(い)う『祖仏ならず、衆生ならず、物ならず』。得たか?」
学云く、「是れ什麽(なん)ぞ?」
師云く、「若し名字有らば、即ち「祖仏・衆生」なり。」
学云く、「只だ与麽にて去るべからず。」
師云く、「卒(つい)に未だ你と与(とも)にし去らず。」
「祖仏も近づくことのできない底,それは何者ですか。」
「祖仏ではない。」
「<近づくことができない>なら、どうしようもない。」
「あんたには『祖仏でない、衆生でない、物でない』と言おう。わかった?」
「それは何ですか。」
「もし名前があれば、即ち「祖仏・衆生」だね。」
「そんなんじゃあ済みませんよ。」
「まだまだ,あんたとは済まないね。」
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