教団の師・運営部は,員に対し「修行」を定めねばならない。
「修行」を与えられなければ,員はすることが無くなるからである。
何をしてよいかわからず,困ってしまうからである。
一日は24時間であるから,24時間が埋まるだけの<務め>を作為せねばならない。
このとき修行は, 「体裁の修行」である。
そして「体裁の修行」は,つぎのように退けられるものになる:
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『景徳伝燈録』巻五「南嶽懐讓章」
唐先天二年 始往 衡嶽 居 般若寺
開元中 有 沙門 道一〈即馬祖大師也〉
住 伝法院 常日 坐禅
師知 是 法器,往問 曰
大徳 坐禅 図什麼
一曰 図作仏
師乃 取一塼,於彼庵前石上 磨
一曰 磨塼 作 什麼
師曰 磨作 鏡
一曰 磨塼 豈得成鏡耶
師曰 磨塼 既不成鏡 坐禅 豈得成仏耶
一曰 如何 即是
師曰 如 牛駕車
車不行 打車即是 打牛即是
一 無対
師又曰
汝 為 学坐禅,為 学坐仏
若 学坐禅,禅 非坐臥
若 学坐仏,仏 非定相
於 無住法,不応 取捨
汝 若 坐仏,即是 殺仏
若 執 坐相,非 達其理
一 聞 示誨,如 欽醍醐
唐先天二年,始に衡嶽に往き,般若寺に居す。
開元中に,沙門の道一有り。
伝法院に住して、常日、坐禅す。
師、これ法器なるを知りて、往きて問うて曰く
「大徳、坐禅して什麼[なに]をか図る」
一[道一]曰く「作仏を図る」
師乃ち一塼[せん]を取りて、彼の庵前の石上に於いて磨く。
一曰く「塼を磨いて、什麼をか作す」
師曰く「磨いて鏡を作る」
一曰く「塼を磨いて、豈に鏡を成し得んや」
師曰く「塼を磨いて既に鏡成らず、坐禅して豈に仏に成るを得んや」
一曰く「如何せば即ち是[ぜ]ならん」
師曰く「牛駕車の如く,車行かざれば、車を打つが即ち是,牛を打つが即ち是」
一、対(こた)える無し。
師また曰く
「汝、坐禅を学ぶを為し、坐仏を学ぶを為す。
もし坐禅を学ばば、禅は坐臥にあらず。
もし坐仏を学ばば、仏は定相にあらず。
無住の法においては、取捨応ぜす。
汝、もし坐仏せば、即ちこれ仏を殺す。
もし坐相に執せば、その理に達するにあらず」
一、示誨を聞きて、醍醐を飲むがごとし。
師 (南嶽懐譲) は,唐先天二年,始に衡嶽に往き,般若寺に居した。
開元中に,沙門の馬祖道一がいた。
伝法院に住み,毎日座禅をしていた。。
師は,馬祖が法器であることを知り,往って問うて言った:
「君は,座禅をして何をしようというのだ?」
「仏になろうとしてます。」
師は,塼(瓦の類)を取って,彼の庵前の石の上で磨きだした。
「塼を磨いて何をつくろうというのですか?」
「磨いて鏡にするのさ。」
「塼を磨いて鏡にはなるわけありませんよ。」
「塼を磨いて鏡にならないなら,座禅で仏になれるわけないだろう。」
「ではどうしたらよいのですか?」
「牛駕車のように,車が動かないときは,車を打ったり,牛を打ったりだ。」
道一は,返せない。
師は続けた:
「おまえがやっているのは,坐禅を学ぶ,坐仏を学ぶだ。
もし坐禅を学べば,禅は坐臥でなくなる。
もし坐仏を学べば,仏は定相でなくなる。
無住の法においては,取捨はないのだ。
おまえの坐仏は、仏を殺してしまう。
おまえの<坐相をとらえる>は、<理に達する>ではない」
道一は,教えを聞いて、醍醐を飲むがごとしであった。
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このロジックにおいて,座禅は行為として成立しないことになる。
座禅に意味など無いことになる。
なぜか。
「体裁の座禅」にかわる「体裁でない座禅」は,成立のしようがないからである。
なぜ成立しないか。
「体裁でない座禅」の向かう先──「仏」──が,そもそも成立しないからである。
「体裁でない座禅」は,欺瞞である。
禅は,<とらわれる>と<とらわれない>の対立を,己の立つ瀬にする。
禅は,<とらわれる>と<とらわれない>の対立に己を賭ける体で立つ。
しかし,その「対立」は,幻想である。
実際,<とらわれる>と<とらわれない>の対立は,単にことばである。
そしてこの対立の論理構造は,「相反」ではなく,「ダブルバインド」である。
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