Up 修行不成立 作成: 2018-03-19
更新: 2018-04-14


    教団の師・運営部は,員に対し「修行」を定めねばならない。
    「修行」を与えられなければ,員はすることが無くなるからである。
    何をしてよいかわからず,困ってしまうからである。
    一日は24時間であるから,24時間が埋まるだけの<務め>を作為せねばならない。

    このとき修行は, 「体裁の修行」である。
    そして「体裁の修行」は,つぎのように退けられるものになる:
      『景徳伝燈録』巻五「南嶽懐讓章」
    唐先天二年 始往 衡嶽 居 般若寺

    開元中 有 沙門 道一〈即馬祖大師也〉
    住 伝法院 常日 坐禅
    師知 是 法器,往問 曰
        大徳 坐禅 図什麼
    一曰  図作仏
    師乃 取一塼,於彼庵前石上 磨
    一曰  磨塼 作 什麼
    師曰  磨作 鏡
    一曰  磨塼 豈得成鏡耶
    師曰  磨塼 既不成鏡 坐禅 豈得成仏耶
    一曰  如何 即是
    師曰  如 牛駕車
        車不行 打車即是 打牛即是
    一 無対
    師又曰 
        汝 為 学坐禅,為 学坐仏
        若 学坐禅,禅 非坐臥
        若 学坐仏,仏 非定相
        於 無住法,不応 取捨
        汝 若 坐仏,即是 殺仏
        若 執 坐相,非 達其理
    一 聞 示誨,如 欽醍醐

    唐先天二年,始に衡嶽に往き,般若寺に居す。
    開元中に,沙門の道一有り。
    伝法院に住して、常日、坐禅す。
    師、これ法器なるを知りて、往きて問うて曰く
    「大徳、坐禅して什麼[なに]をか図る」
    一[道一]曰く「作仏を図る」
    師乃ち一塼[せん]を取りて、彼の庵前の石上に於いて磨く。
    一曰く「塼を磨いて、什麼をか作す」
    師曰く「磨いて鏡を作る」
    一曰く「塼を磨いて、豈に鏡を成し得んや」
    師曰く「塼を磨いて既に鏡成らず、坐禅して豈に仏に成るを得んや」
    一曰く「如何せば即ち是[ぜ]ならん」
    師曰く「牛駕車の如く,車行かざれば、車を打つが即ち是,牛を打つが即ち是」
    一、対(こた)える無し。
    師また曰く
    「汝、坐禅を学ぶを為し、坐仏を学ぶを為す。
     もし坐禅を学ばば、禅は坐臥にあらず。
     もし坐仏を学ばば、仏は定相にあらず。
     無住の法においては、取捨応ぜす。
     汝、もし坐仏せば、即ちこれ仏を殺す。
     もし坐相に執せば、その理に達するにあらず」
    一、示誨を聞きて、醍醐を飲むがごとし。

    師 (南嶽懐譲) は,唐先天二年,始に衡嶽に往き,般若寺に居した。
    開元中に,沙門の馬祖道一がいた。
    伝法院に住み,毎日座禅をしていた。。
    師は,馬祖が法器であることを知り,往って問うて言った:
    「君は,座禅をして何をしようというのだ?」
    「仏になろうとしてます。」
    師は,塼(瓦の類)を取って,彼の庵前の石の上で磨きだした。
    「塼を磨いて何をつくろうというのですか?」
    「磨いて鏡にするのさ。」
    「塼を磨いて鏡にはなるわけありませんよ。」
    「塼を磨いて鏡にならないなら,座禅で仏になれるわけないだろう。」
    「ではどうしたらよいのですか?」
    「牛駕車のように,車が動かないときは,車を打ったり,牛を打ったりだ。」
    道一は,返せない。
    師は続けた:
    「おまえがやっているのは,坐禅を学ぶ,坐仏を学ぶだ。
     もし坐禅を学べば,禅は坐臥でなくなる。
     もし坐仏を学べば,仏は定相でなくなる。
     無住の法においては,取捨はないのだ。
     おまえの坐仏は、仏を殺してしまう。
     おまえの<坐相をとらえる>は、<理に達する>ではない」
    道一は,教えを聞いて、醍醐を飲むがごとしであった。


    このロジックにおいて,座禅は行為として成立しないことになる。
    座禅に意味など無いことになる。
    なぜか。
    「体裁の座禅」にかわる「体裁でない座禅」は,成立のしようがないからである。
    なぜ成立しないか。
    「体裁でない座禅」の向かう先──「仏」──が,そもそも成立しないからである。
    「体裁でない座禅」は,欺瞞である。

    禅は,<とらわれる>と<とらわれない>の対立を,己の立つ瀬にする。
    禅は,<とらわれる>と<とらわれない>の対立に己を賭ける(てい)で立つ。
    しかし,その「対立」は,幻想である。

    実際,<とらわれる>と<とらわれない>の対立は,単にことばである。
    そしてこの対立の論理構造は,「相反」ではなく,「ダブルバインド」である。