Up 頓悟 作成: 2018-03-19
更新: 2018-03-19


    分析的・構成的方法を退けるとき,「正法」はどんなふうに得られるものということになるか。
    ロジックとして,もっぱら「頓悟」の様で得られるものということになる。

      『趙州録』
    師 問 南泉、如何是 道。
    泉云、平常心 是。
    師云、還 可 趣向 不。
    泉云、擬 即 乖。
    師云、不擬、争知 是 道。
    泉云、道 不属 知不知。
       知 是 妄覚、不知 是 無記。
       若 真達 不擬之道、猶 如 太虚、廓然蕩豁。
       豈可強 是非 也。
    師於言下、頓悟玄旨、心如朗月。

    師、南泉に問う、「如何なるか是れ道。」
    泉云く、「平常心是れ。」
    師云く、「還[ま]た趣向すべきや。」
    泉云く、「擬すれば,即ち乖[そむ]く。」
    師云く、「擬せずんば、争[いか]でか是れ道なることを知らん。」
    泉云く、「道は知・不知に属せず。
         知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
         若し真に不擬の道に達せば、猶お太虚の如く、廓然蕩豁たり。
         豈に強いて是非すベけんや。」
    師、言下に玄旨を頓悟し、心、朗月の如し。

    師 (趙州) が南泉にたずねた、「道とはどんなものですか。」
    「平常心がそれだ。」
    「さらに目標を立てるべきですか。」
    「思案が入ると、外してしまうぞ。」
    「思案しないで,どうしてそれが道だと知れましょうや。」
    「道は,<知る・知らない>というものではない。
     <知る>は妄覚、<知らない>は無記だ。
     もしほんとうに思案の入らない道に達したら、
     もう太虚のごとしであって、廓然蕩豁だ。
     是非を入り込ませるところはない。」
    師は,言下に玄旨を頓悟して、心,明月の如しであった。