分析的・構成的方法を退けるとき,「正法」はどんなふうに得られるものということになるか。
ロジックとして,もっぱら「頓悟」の様で得られるものということになる。
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『趙州録』
師 問 南泉、如何是 道。
泉云、平常心 是。
師云、還 可 趣向 不。
泉云、擬 即 乖。
師云、不擬、争知 是 道。
泉云、道 不属 知不知。
知 是 妄覚、不知 是 無記。
若 真達 不擬之道、猶 如 太虚、廓然蕩豁。
豈可強 是非 也。
師於言下、頓悟玄旨、心如朗月。
師、南泉に問う、「如何なるか是れ道。」
泉云く、「平常心是れ。」
師云く、「還[ま]た趣向すべきや。」
泉云く、「擬すれば,即ち乖[そむ]く。」
師云く、「擬せずんば、争[いか]でか是れ道なることを知らん。」
泉云く、「道は知・不知に属せず。
知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
若し真に不擬の道に達せば、猶お太虚の如く、廓然蕩豁たり。
豈に強いて是非すベけんや。」
師、言下に玄旨を頓悟し、心、朗月の如し。
師 (趙州) が南泉にたずねた、「道とはどんなものですか。」
「平常心がそれだ。」
「さらに目標を立てるべきですか。」
「思案が入ると、外してしまうぞ。」
「思案しないで,どうしてそれが道だと知れましょうや。」
「道は,<知る・知らない>というものではない。
<知る>は妄覚、<知らない>は無記だ。
もしほんとうに思案の入らない道に達したら、
もう太虚のごとしであって、廓然蕩豁だ。
是非を入り込ませるところはない。」
師は,言下に玄旨を頓悟して、心,明月の如しであった。
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