Up 「平常心」テクスト 作成: 2018-03-19
更新: 2018-04-14


    学は,主題探究の中で,方法論を固めていく。
    禅は,空観の含意になる「無為」で自縄自縛する。
    よって,禅の方法論は「無為」の他は無い。

    しかし,自分が存在していることは,行為していることであり,企図していることである。
    それらの行為・企図は,「無為」であるとしなければならない。
    どうするか。
    それらを「平常」と位置づける。
    こうして,禅の方法論は「平常心」になる:
      『趙州録』
    師 問 南泉、如何是 道。
    泉云、平常心 是。
    師云、還 可 趣向 不。
    泉云、擬 即 乖。
    師云、不擬、争知 是 道。
    泉云、道 不属 知不知。
       知 是 妄覚、不知 是 無記。
       若 真達 不擬之道、猶 如 太虚、廓然蕩豁。
       豈可強 是非 也。
    師於言下、頓悟玄旨、心如朗月。

    師、南泉に問う、「如何なるか是れ道。」
    泉云く、「平常心是れ。」
    師云く、「還[ま]た趣向すべきや。」
    泉云く、「擬すれば,即ち乖[そむ]く。」
    師云く、「擬せずんば、争[いか]でか是れ道なることを知らん。」
    泉云く、「道は知・不知に属せず。
         知は是れ妄覚、不知は是れ無記。
         若し真に不擬の道に達せば、猶お太虚の如く、廓然蕩豁たり。
         豈に強いて是非すベけんや。」
    師、言下に玄旨を頓悟し、心、朗月の如し。

    師 (趙州) が南泉にたずねた、「道とはどんなものですか。」
    「平常心がそれだ。」
    「さらに目標を立てるべきですか。」
    「思案が入ると、外してしまうぞ。」
    「思案しないで,どうしてそれが道だと知れましょうや。」
    「道は,<知る・知らない>というものではない。
     <知る>は妄覚、<知らない>は無記だ。
     もしほんとうに思案の入らない道に達したら、
     もう太虚のごとしであって、廓然蕩豁だ。
     是非を入り込ませるところはない。」
    師は,言下に玄旨を頓悟して、心,明月の如しであった。


    「平常」を立てるのは,もちろん,ご都合主義である。
    しかしこのご都合主義は,どうしようもないものである。

    即ち,禅は,空観の含意になる「無為」で自縄自縛になる。
    観念の無為と現実の有為のダブルバインドになる。
    「平常」のご都合主義は,禅の因果というものである。