Up おわりに 作成: 2018-03-29
更新: 2018-03-29


    一つの定言が真理として立てられる。
    この定言が信じられることになったら,それは迷信である。

    「迷信」の問題は,迷信かそうでないか,ではない。
    問題は,その定言の系が,定言を更新し続ける系か,それとも定言を固定する系か,である。

    前者は,科学である。
    科学は,己が立てる定言を信じない。
    つぎには否定されるものとして,定言を立てる。
    科学は,己の営みが<修正>を方法とする自己組織化であることを,知っているからである。

    後者は,宗教である。
    したがって,宗教は開祖がピークになる。
    実際,仏教は,ブッダがピークであり,後は退化の一途である。


    禅は,とりわけ「言語詐欺」という形の退化である。
    よく言えば,「アヴァンギャルド」である。

    アヴァンギャルドに引っかかるのは,インテリである。
    禅が今日的な主題になるのは,それがインテリ論──知識人批判──になるからである。


    人間は,合理主義に際すると,<退行>のベクトルを伸ばしてバランスをとろうとする。
    合理主義の中に棲まわされる者は,意識下で,<退行>を合理化してくれるものを求め続けている。
    インテリとは,このような人種である。

    「インテリ」とは,社会組織の中のその存在相に対する名称であって,「インテリジェンス intelligence」とは無関係である。
    インテリは,アヴァンギャルドが言語詐欺であることを知らない。
    彼らは,アヴァンギャルドを新鮮な思想のように思う者たちである。


    人間は,生物進化の流れの中に存在している一つの種である。
    人間の生物的本質は,文化・社会的な変化では変わるものではない。
    革新・革命の類が必ず失敗するのは,人間は変わるものではないからである。