Up | 欺瞞の報い : 要旨 | 作成: 2018-03-17 更新: 2018-03-17 |
教義は,尊士に溯ることになっているから,無謬・不可侵なのである。 しかし何もしないという在り方は,できない。 そこで,教義の「読み解き」ということをやる。 「読み解き」というのは,便利な方式である。 オリジナリティーに弱い者は,「読み解き」を仕事にできる。 そしてこれは,際限無くできる。 こうして教団は,教義に関してはこんなことばかりをやっているところになる。 教団の中から,これに反発する者が出てくる。 このとき彼らは,反体制のスローガンを,「実践」と「正法」にする。 「実践」のスローガンは,《教義の読解で自足》を攻撃するためのものである。 「正法」のスローガンは,《教義を読解しているつもり》を攻撃するためのものである。 彼らは,「実践」と「正法」の二点において,自分を他から差別化しようとする。 教義は,出来上がったものであり,無謬・不可侵である。 そこで,「正法」での差別化は,他を<浅い>にして自分を<深い>にする形しかない。 こうして反発者は,「わたしは深く知る者である」をアピールしていく者になる。 しかし,「深く知っている」は,はったりでしかない。 「それはどんなのだ?」の問いには,答えられない。 そこで,「不立文字」を立てる。 この物理に,「合理化」の心理が加わる。 「自分は正法に至っているが,それはことばにならないものだ」を,実際に信じ込むのである。 この現象は,ありふれたものである。 自分を他と差別化するのに<浅い・深い>を用いる者は,必ず「不立文字」を立てる。 併せて,無意味な文章をつくって,他に見せつける。 「どうだ,おまえたちにはわからんだろう」「分析的に読んでもだめだぜ」をポーズするわけである。 禅は,この類である。 以上でも以下でもない。 まっとうならば,自分のやっていることがはったりだということが,わかってくる。 そんなことを延々とやっている自分に嫌気がさしてくる。 そしてやめる。 「若気の至り」が,このときの反省の形である。 しかし,ひとを引き込んでしまっている場合は,自覚したときはもう遅い。 引っ込みのつかない立場に自分をしてしまっている。 <やめる>ができない。 はったり詐欺を続けるしかない。 禅の学校・師は,この類である。 以上でも以下でもない。 |