Up <師に非ず>をパフォーマンスする 作成: 2018-03-20
更新: 2018-04-16


    「至道」が幻想であることは知っている師Xは,<師>という存在が欺瞞であることを知っている者である。
    且つ,そうとは知りつつ,師でいる方がそうでないよりラクなので,師の地位に収まっている者である。

    学生は,師を師と仰ぐタイプ (Aタイプ) と,師を自分に並べるタイプ (Bタイプ) の二つに分かれる。
    Bタイプは,Aタイプを軽蔑する。

    Xは,学生のときはBタイプの学生であった。
    よって,自分は師と仰がれる者には金輪際なるまいと思う。
    先生と言われる程の馬鹿でなし」というわけである。
    こうしてXは,師のように扱われることに,こと細かく抵抗する。

    これは,学生たちにとって,めんどうくさい限りである。
    師に対する学生の追従は,追従しないという形が無いからやるというものである。
    実際,これを「礼儀」という。

    というわけで,つぎのようなことになる:
      『祖堂集』
    師 欲順世時、向第一座 云、
      百年後 第一不得 向王老師頭上汚。
    第一座 對云、
      終不敢造次。
    師云、
      或 有人問 王老師什摩処去也、
      作摩生向他道。
    對云、
      帰 本処 去。
    師云、
      早是 向我頭上汚了也。
    却問、
      和尚 百年後 向什摩処去。
    師云、
      向 山下檀越家作一頭水牯牛 去。
    第一座云、
      某申 随和尚 去 
      還許也無。
    師云
      你 若随我 銜一束草来。

    「おれが死んだ後,おれの顔に泥を塗るようなことはしてくれるな」
    「そんなことしませんよ」
    「老師はどこへいった,とひとから問われたら,何と答える」
    「本処に帰ったと言います」
    「ほら,もうおれの顔に泥を塗ってる」
    「じゃあ,どこへ行くというんですか」
    「あそこの牛にだよ」
    「わたしも和尚に随いますよ,いいですね」
    「随うなら,わらを(くわ)えて来い」

    これは,めんどうくさい和尚の滑稽話として読むのが正しい。