Up 煙に巻く 作成: 2018-03-20
更新: 2018-04-16


    <教えるものをもたない師>のパフォーマンスは,《<道を匂わせる>と<道についての問いを却ける>を同時にする》である:
    意味ありげにはぐらかすというわけである。

    つぎは,学生を修行につなぎとめるパフォーマンス:

      『趙州録』
    問、 正修行底人、莫被鬼神測得也無。
    師云、測得。
    云、 過 在什麽処。
    師云、過 在覓処。
    云、 与麽 即不修行也。
    師云、修行。

    「正しく修行している人は,鬼神に見透かされなく無くなりますか?」
    「見透かされるね」
    「誤りは,どこにありますか?」
    「誤りは,覓[もと]めるところにある」
    「そんなら,修行しませんよ」
    「修行しろ」


    問、 如何是 正修行路。
    師云、解修行 即得。若不解修行、即参差落 他因果裏。

    「どんなんですか,正しい修行の路は?」
    「修行を解せば即ち得る,だ。
     解さざれば,他[か]の因果の世界に落ちる。」


    問、 了事底人 如何。
    師云、正大修行。
    学云、未審 和尚還修行也無。
    部云、著衣喫飯。
    学云、著衣喫飯尋常事。未審 修行也無。
    師云、你且道、我毎日作什麽。

    「悟った人は,どんなですか?」
    「まさに大いに修行だ」
    「え?和尚も修行してるんですか?」
    「衣を着け,飯を食ってるよ」
    「衣を着け飯を食うはふつうのことでしょう。修行してるんですか?」
    「そんなら言って見ろ。わしは毎日何をやっている」


    そしてつぎは,学生から「道」を問われたときの,対応パフォーマンス:

      『趙州録』
    問、如何是道。
    師云、墻外底。
    云、不問者箇。
    師云、問什麽道。
    云、大道。
    師云、大道通長安。

    「どんなものですか,道とは」
    「へいの外にあるだろう」
    「それをきいているんじゃありませんよ」
    「どんな道をきいているんだ」
    「大道です」
    「大道なら長安にある」


    師 示衆云、
       各自有禅、各自有道。
       忽有人問你、作麽生是禅是道、作麽生祇対他。
    僧乃問、既各有禅道、従上至今 語話 為什麽。
    師云、為你遊魂。
    学云、未審如何為人。
    師乃退身不語。

    「それぞれに禅が有り、道が有る。
     もしひとから禅とは何か道とは何かと問われたら,どう応える?」
    「それぞれに禅・道が有るなら,とりとめのない議論は何のためです?」
    「君のために魂を遊ばせてやろうというのさ」
    「へぇー?どういうぐあいにそれが人のためなんですか?」
    師は退身不語


    見掛けは<青臭い者をあしらう>だが,師の<青臭くない>は何かというと,身につけた欺瞞である。

    禅に思い入れをする者は,上のようなやり取りに思い入れをする。
    即ち,「師の奥深い思慮が示されているはずだ」の思いで,読み解こうとする。
    勘違いの深読みは,きりがない。
    よって,延々と続けられる。