Up 「正」を立てる──ことばの<存在措定機能>の罠 作成: 2018-03-22
更新: 2018-03-22


    いま,「ん」と発声する。
    すると,ことばの機能として,「<ん>とは何か?」の問いが立つ。
    「<ん>とは何か?」の問いが立つと,「<ん>とは何か?」の探求を思いつく。
    <ん>の手掛かりは無いから,この探求は「瞑想」になる。
    瞑想してると,「<ん>とは何か」を想うことができている気がしてくる。
    同時に,この想いはことばには表せないものだという思いをもつ。
    そこで,「不立文字」を唱えることになる。
    至道無難 唯嫌揀択 纔有言語 是揀択」「平常心」を唱えることになる。

    禅が立てる「正」は,この「ん」と同じである。
    禅は,ことばにだまされる。
    「正」のことばに対応する対象があると思ってしまう。
    そしてその対象に至ることを,自分の実践課題にする。
    課題を「正道」を定めて,これを実践しようとする。

    ひとは,このような空回りを,ふつうにやってしまう。
    やってしまうのは,言語とは何かをわかっていないからである。


    「正」は,存在を問うように「正とは何か?」と問うものではない。
    「正」は,ラベルとして使うことばである。
    「○○は正しい・△△は正しくない」というふうに使うことばである。

    形式言語理論では,「正」は記号「T」(「真理値」) である。
    これは,命題 (定言) に付される値である。

    「T」は,「正」とか「真」と読まれる必要も無い。
    <論理系を構成するための形式的・機能的要素の一つ>──これが「T」の身分である。


    評価値を「真・偽」の二値にするとき,その形式言語は「二値論理」であると謂う。
    禅シンパの者は,言語を「二値論理」だと言って批判する。
    ならば,「二値論理」でない言語を開発すればよい。
    科学は,これを実践している。
    日常言語も,二値をぼやかす表現が多様・大量に開発されてきている。

    禅のような「だから言語は用いない」は,科学・生活者にすれば,ただの<幼児性>である。

    禅に見るべきは,この<幼児性>である。
    <幼児性>での停滞である。
    「正」のことばの機能を勘違いし,己の不如意を言語批判・二値論理批判で合理化し,合理化できているつもり,の(てい)である。