Up 思わせぶり 作成: 2018-03-29
更新: 2018-04-06


    禅は,道を立てる。
    道は「何かへの道」として立てるものであるが,禅の立てる道には,その何かが無い。
    何かが無いのは,何かを立てられないからである。
    立てられないのは,もともと立てるものを持っていないからである。

    最初は,「何かへの道」として,道を始めようとしたのである。
    「真理」の類をゴールに想定したわけである。
    しかし,探ってみると,そんなものは無いことがわかってくる。
    だが,既に己を師となし学生を呼び込んでしまっていると,引っ込みがつかない。
    彼らを学生の身分に納得・満足させねばならない。

    こうして師は,<思わせぶり>を用いることになる。
    そしてこれを身につけ,自分で自分をわからなくしていく。


    禅の修行は,修行を自己目的化した修行である。。
    禅は,空手形で,道場を開設する。
    道場の師は「道を知る者」を装う。
    自分はわかっているけど,それはことばにできないものなんだ」を,パフォーマンスする。

    学生は,師のこのパフォーマンスを信じてしまうか,「アホか」と言って去るかのどちらかである。
    信じてしまった者は,道場に住み込み,日課の形に纏められた修行に努める。

    この道場は,惰性である。
    何も無く,何も起こらない。


      『趙州録』
    師上堂、示衆云、

    金仏不度炉、木仏不度火、泥仏不度水、真仏内裏坐。
    菩提涅槃、真如仏性、尽是貼体衣服、亦名煩悩。
    不問 即 無煩悩。
    実際理地、什麽処著。
    一心不生、万法無咎。
    但究理而坐、二三十年
    若不会、截取老僧頭去。

    夢幻空花、徒労把捉。
    心若不異、万法亦然。
    既不従外得、更拘什麽。
    如羊相似、更乱拾物、安口中作麽。

    老僧見薬山、和尚道、有人間著、但教合取狗口。
    老僧亦道、合取狗口
    取我是垢、不取我是浄。

    一似猟狗相似 専欲得物喫,仏法向什麽処著。
    一千人万人 尽是覓仏漢子,覓一箇道人無。
    若与空王為弟子、莫教心病。最難医。
    未有世界、早有此性。
    世界壊時、此性不壊。

    従一見老僧後、更不是別人。
    只是箇主人公。
    者箇更向外覓作麽。
    与麽時、莫転頭換面。
    即失却也。


    師上堂して、衆に示して云く、

    金仏、炉を度(わた)らず。
    木仏,火を度ず。
    泥仏、水を度らず。
    真仏、内裏に坐す。
    菩提・涅槃・真如・仏性、尽く是れ体に貼(つ)ける衣服なり、
    亦た煩悩と名づく。
    問わずんば、即ち煩悩無し。
    実際理地、什麽(なん)の処にか著かん。
    『一心の生ぜずんば、万法咎無し。』
    但だ理を究めて坐すること、二三十年せよ。
    若し会せずんば、老僧(わたし)の頭を截(き)り取り去れ。

    『夢幻空花、徒らに把捉を労す。』
    『心若し異ならずんば、万法も亦た然り。』(『信心銘』)
    既に外従(よ)り得ざれば、更に什麽(なに)にか拘らん。
    羊の如くに相似て,更に乱りに物を拾うて口中に安きて,作麽(なにかせん)。

    老僧,薬山に見(まみ)えしとき、和尚道(い)えり、
    『人の問著する有らば、但だ狗口(くち)を合取(とじ)せしむ』と。
    老僧も亦た道う、『狗口を合取よ』と。
    『我れを取るは是れ垢、我れを取らざるは是れ浄なり。』(『維摩経』弟子品)

    (だれもかれも) 一に猟狗に似て相似て、専ら物を得て喫せんと欲す。
    仏法,什麽の処にか著かん。
    一千人万人、尽く是れ<仏を覓(もと)むる>漢子なり。
    <一箇の道人を覓むる>、無し。
    若し空王が与(ため)に弟子と為らば、心をして病ましむること莫れ。
    最も医し難し。
    未だ世界有らざるに、早(すで)に此の性有り。
    世界の壊する時も、此の性は壊せず。

    一たび老僧を見てより後は、更に是れ別人ならず。
    只だ是れ いっ箇の主人公なり。
    者筒、更に外に向って覓めて作麽(なにかせん)。
    与麽(ど)の時も、頭を転じ面を換ゆる莫れ。
    即ち失却せん。