Up なぞなぞごっこ 作成: 2018-03-20
更新: 2018-03-20


    禅は,反<分析・構築>である。
    禅は,反<分析・構築>で,自縄自縛する。

    反<分析・構築>は,言語が使えなくなることである。
    なぜか。
    言語は,論理形式である。
    論理形式であるとは,これを用いれば論理的になってしまうということである。
    そして,論理的になってしまうとは,分析的・構築的になってしまうということである。
    分析的・構築的になるのが嫌なら,言語は捨てるしかない。


    禅僧で食っていくためには,ひとから敬われる行動をしなければならない。
    言語を捨てるなら,<パフォーマンス>ということになる。
    苦行とかボランティア活動とかである。
    <パフォーマンス>を択らないなら,言語行為である。

    禅は,<パフォーマンス>を択らない。
    で,結局どうなるか。
    《言語を捨てたふうをして言語行為をする》となる。


    この位相から,かれらは「なぞなぞ」という言語様式を開発した。
    「公案」である。

    「公案」は,知的ゲームとして遊んででいる分には罪はない。
    しかし,<意味深>を見せかけるようだと,罪である。
    はったりになるからである。
    実際, 「公案」の機能は,
    • 相手を煙に巻く──煙に巻かれた相手は,意味深と勘違いする
    • これを用いる者は,自分で自分を騙す者になる
    である。

    反<分析・構築>は,退行・退化の道である。
    「公案」の実態は児戯・戯れ言というものであるが,これを<意味深>として互いに騙し合う系ができていくのである。