Up はじめに 作成: 2018-03-16
更新: 2018-04-15


    シーザーを理解するためにシーザーである必要はない
    実際は,「シーザーはシーザーを理解できない」「シーザーを理解するためにはシーザーであってはならない」である。
    そこで,これまで禅とは無縁できたことを立場の利として,禅とは何かを論じてみるとする。


    禅とは何かを論じようとする理由は,二つである。
    一つは,「禅を借りて,ダブルバインド型自己欺瞞の系力学を同定しておこう」である。

    なぜ特に禅なのか。
    禅は,何か高次のものとひとから思われている。
    しかしその本質は,<自己欺瞞>であり,自己欺瞞を至道に見せかける<詐欺>である。
    そしてこのおおもとは,<愚昧>である。
    このギャップが,よいである。

    ひとは,愚昧・欺瞞を<崇高>に転じる。
    愚昧・欺瞞と<崇高>は同じなのである。
    実際,理知は<崇高>にはならない。
    なぜか。
    理知は,ひとを疎外するからである。

    禅はひとのこの疎外感につけ込むふうになる。
    ひとは,禅をありがたいものにする。


    禅とは何かを論じようとする理由のもう一つは,「禅がこのような系であることを論ずるテクストが存在しないから」である。

    巷の禅論考のテクストは,《禅から真理の示唆をもらう》を構えにしたものばかりある。
    実際は,禅は<真理>とは無縁のものである。
    禅は,<探求>を自ら閉ざし,そのことで己を<真理>とは無縁のものにしてしまう。──これが禅である。


    以下,禅とは何かを,要約して述べておく。

    禅は,己をダブルバインドの(てい)にする論法をつくる。
    「不立文字」である。
    これは,生活から<企て>を排除する論に進む。
    「平常心」が「不立文字」の実践形になる。
    こうして,禅は反理知が立場になる。

    一方,禅とは禅学校のことである。
    この学校は,「不立文字」「平常心」が立場になるので,教えるものを持たず,アウトプットを持たない。
    学校として成立しない学校である。
    これを無理矢理成立させようとする。
    無理矢理であるから,欺瞞である。
    実際行動すれば,詐欺である。

    詐欺のパフォーマンスは,<思わせぶり>である。
    技術は,<煙に巻く>である。
    禅とは,この営みのことである。


    ダブルバインド型の自縄自縛,自己欺瞞は,ふつうのことである。
    実際,社会で生きるとは,ダブルバインド型の自縄自縛,自己欺瞞を生きるということである。
    自給自足生活と社会生活の違いはここにある。

    ダブルバインド型の自縄自縛,自己欺瞞の思弁は,系進化する。
    進化のダイナミクスは<自己組織化>であり,その系は詐欺の系である。


    禅は,<反理知>で自縄自縛する。
    自縄自縛は,《理知で反理知をする》というダブルバインドの自縄自縛である。
    禅は,自身の立て方を間違ったのである。

    系の力学は不可逆である。
    このダブルバインドの系は,自己組織化する。

    禅教団は,「集団心理」のダイナミクスで,理性を麻痺させる。
    教団は,惰性を身につける。

    また,教団の指導部は,教団経営に関心をもつものになる。
    彼らは,もともと既成理知集団に対抗心をもつ者であり,対抗の形は既成を退けて自分がのし上がることである。
    よって,その機会が得られればこれを択る。
    こうして,世俗権力との利害の符合によって権力の中に入っていく,ということにもなる。