Up <開祖・教団>の進化法則 作成: 2018-03-14
更新: 2018-03-27


    ブッダとは,「色即是空・空即是色」「諸行無常」の存在論を<悟り>とした歴史上の人物に与えられた称号である。
    ブッダの意味は,これ以上でも以下でもない。
    「色即是空・空即是色」「諸行無常」の存在論を<悟り>とする──これが, ブッダの意義である。

    「色即是空・空即是色」「諸行無常」は,観念論ではなく,物理である。
    実際,いまの時代には,アタリマエとなるものである。科学は,存在を「色即是空・空即是色」「諸行無常」として現す。


    ブッダは,煩悩からの解脱の方法論を求め,この存在論に至り,これをソルーションとした。
    《これがソルーションである》のロジックは:
     《 苦は,煩悩であり,それは執着から生ずる。
    執着しているものは,実体がない。あるいは,無常である。
    執着しているものに実体がないこと,無常であることがわかれば,執着は無くなる。 よって,苦から脱けられる。》
    執着は《執着しているものの空・無常がわかれば執着が無くなる》というものではないが,ブッダは「無くなる」と考えた/考えることにした (仮説)。

    ブッダは,この成果をひとに説いてまわる (仮説検証)。
    これにより,ブッダを囲む勉強会が組織されていくことになる。

    ブッダを囲む会は,ブッダを師にする教団に変質する。
    ── 一般に,勉強会は,教団に変質する。
    員の間には,<中央・周辺>の格差が形成され,<先輩・後輩>および<優・劣>の階層が形成される。
    このダイナミクスにより,師は一般員から隔たった存在になる。
    そしてこれは,師が偉い存在になるということである。
    そして開祖が死ぬと,教団のダイナミクスは,開祖の神格化に進む。


    教団の中から,実践的に師のあとを継ごうとする動きが起こってくる。
    「大乗」ムーブメントである。

    「大乗」は,どんなふうになるか?
    「色即是空・空即是色」「諸行無常」の存在論は,一般大衆に伝わるものではない。
    そして,一般大衆とは,こんな存在論で救われるような存在ではない。
    しかし,布教者は<救済者>の立場をとってしまったので,引っ込みがつかない。
    そこで,救済のための方便を用いる。
    救済仏を立て,「死んだら極楽に行くよ」「称名念仏の他は要らないよ」の虚言を使うようになる。

    大乗教団は,様々な信仰アイテムの開発に邁進する。
    特に重要なカテゴリーに,二つある。
    一つが,「仏像」である。
    そしてもう一つが,「お経」である──「大乗経典」。
    大乗経典は,救済仏ストーリーの創作であり,フィクションである。
    しかし流通していく過程で,事実の記録というものになっていく。

    方便は成功する。
    大衆はそれをありがたがる。
    しかしこの成功により,教団はますます引っ込みがつかなくなる。
    大衆がありがたがるように,己を荘厳に装飾していく。
    これが循環運動する。
    こうして教団は,自身を「あの世」商売に成していく。
    「色即是空・空即是色」「諸行無常」の<悟り>とは無縁のものになっていく。


    救済の方便「称名念仏の他は要らないよ」「死んだら極楽に行くよ」は,騙しである。
    経も仏像も騙しである。
    しかし,やってしまっているからには,これを本当にしなければならない。
    そして,欺瞞を意識したら教団はやれない。
    自己欺瞞の意識は,抑圧・遮断しなければならない。
    こうして,教団は,自己欺瞞の意識を抑圧・遮断する装置を開発するところとなる。
    その装置は,「修行」である。

    「修行」の内容は,苦行である。
    苦行の機能は,<洗脳>である。
    苦行は<悟り>とは何の関係もない。
    <悟り>に至るための実践は,科学である。
    苦行は,科学の真逆を行くものである。

    アスリートは,自信をもてるために苛酷な練習を積む。
    修行僧の苦行は,これと同じである。
    ただしこの場合は,根拠の無い自信をもつために,苦行するのである。

    そして「修行」は,一石二鳥の効果をもつ。
    洗脳と合わせて得られるものは,大衆からの支持である。
    ひとは,苦行者を見ると,これを応援し,さらに尊敬するようになる。
    苦行がすごいほど尊敬の度合いは高まり,その苦行者に手を合わせ拝むようになるのである。


    教団はかように進化する。
    この進化のかたちは,必然である。
    そもそものスタートは,「色即是空・空即是色」「諸行無常」の存在論であった。
    これが,「あの世」商売へと変わっていくのである。
    そして今日の「あの世」産業に至っているわけである。

    ただし,「あの世」産業も,諸行無常である。
    今日の「あの世」産業は,科学の常識と比べられる格好になる。
    信仰を土台にしたものでは,いられない。

    比叡山では最澄が今も生きていて,毎日配膳される飯を食し,少し開けられた障子の隙間を通って堂の中に入る。
    本来なら荒唐無稽となるべきこの話は,逆に,ありがたい話になる。
    ひとは,死んだ人のことを偲んでひとと語るとき,「いまはあの世で‥‥」のような言い方をふつうにする。
    なぜか。
    ひとは,ここは科学的知識を介入させてはならない領域──即ち,ファンタジー・ゲームの領域──だ,という(わきま)えをするのである。
    科学の時代の「あの世」産業は,ひとのこの<分別>によって保つ,というふうになる。


    以上の流れは必然であるが,この大きな流れは小さな分岐を処々に含む流れである。
    禅は,教学を批判するムーブメントとしておこる。
      三乘十二分教 皆是 拭不淨故紙(註)
       佛 是 幻化身,
       祖 是 老比丘

             (『臨済録』「示衆」)
    しかし,系の力学により,大きな流れの中に結局は収まっていく。


     註: 「不淨を拭う故紙」=トイレットペーパー