Up 破邪顕正 作成: 2018-04-04
更新: 2018-04-12


    教育は思考を論理的・生産的にしようとするが,人は変わるものではない。
    人の思考スタイルは多様であり,そして簡単に退行する。

    仏教の特徴的な論法に,「破邪顕正」がある。
    この論法は,退行である。
    即ち,「色即是空空即是色」を肯定的に説明できなくて逃げ込んだのが,「破邪顕正」である。


    「破邪顕正」の意は,「破邪即顕正」──「邪を破ることが,即ち正を顕すこと」──である(註)
       凝然『八宗綱要』「三論宗・破邪顕正」
    破邪之外 無 別顯正。
    破邪已盡 無 有所得。
    所得既無、言慮 無寄
    破邪の外、別の顕正なし。
    破邪すでに尽くれば、所得の有ることなし。
    所得すでに無ければ、言慮の寄ることなし

    「破邪即顕正」は,言うまでもなく,虚偽である。
    実際,邪の否定から正が顕れないことは,論理のいろはである。
      「これは2だ」を邪とし,「2ではない」と言う。
      「2ではない」は,何の数も指さない。
    特に,「破邪即顕正」の言を用いて人を信用させれば,それは詐欺である。


    「イデオロギー」は,「破邪即顕正」が流儀である。
    野党は<批判・文句ばっかり>になるのが定めであり,大衆やマスメディアは<批判・文句ばっかり>を自分の役割にしていく。 これも「破邪即顕正」である。
    実際,「破邪即顕正」は,ひとのふつうの思考スタイルである。
    なぜなら,「破邪即顕正」は<肯定的な定言を立てられない者>のやることであるが,ひとはだれしも<肯定的な定言を立てられない者>だからである。

    「破邪即顕正」の思考スタイルは,<構築>の思考法と対立していることになる。
    <構築>の思考法の例は,科学である。
    学校教育は科学 (自然および人文) の教育になっているが,それは学校教育が<構築>志向──生産者養成──で立てられているためである。


    禅の「不立文字」は,「破邪即顕正」の類である。
    「不立文字」を立てながら,「こうではない」を言うことにおいては饒舌である。

    禅の師は,「不立文字」の合理化を必要とする者である。
    師は,授業する者であり,しかし肯定的な定言を立てられない者である。
    ここで「不立文字」が使える。
    否定的なことしか言えないが,それで授業成立となってくれる。

    学校教育は<構築>志向から科学の教育として設計されているが,「科学的」の意味が曖昧になる分野は「不立文字」に嵌まる危険がある。
    よって,禅の「不立文字」教育の様を知っておくことは,「温故知新」の意味で,教育学的意義がある。


     註 : 「破邪即顕正」は,『三論玄義』の「破邪顕正」がこれであるように解説されることがある。
    しかし,『三論玄義』の「破邪顕正」は,まだ段階論である──「破邪即顕正」の意味に解するのは無理である:
      吉蔵『三論玄義』
    初門 有 二
    一 破邪
    二 顕正
    初門に二あり
    一に破邪
    二に顕正

    破邪 則 下 拯 沈淪。
    顯正 則 上 弘 大法
    破邪は則ち下に沈淪を拯(すく)い、
    顯正は則ち上に大法を弘む。