「色即是空空即是色」の『般若心経』は,前半が存在論,後半の前半分が実践論,そして残りが宗教 (信仰宣言) という構成になっている。
存在論は,「色即是空空即是色」。
実践論は,「般若波羅蜜多」に「依」り「無圭礙」になって「究竟涅槃」。
信仰宣言は,「般若波羅蜜多 是 大神咒 ‥‥ 能除 一切苦 真實 不虚」。
仏教は,存在論のみを見る限り,思想ないし哲学である。
仏教は,存在論から → 実践論 → 信仰宣言 の二段跳びで宗教になる。
跳躍は,文字通り跳躍であり,没論理である。
ブッダの時は,宗教というものではない。
跳躍は,教団が大きくしていくものである。
そして,「大乗」になって,宗教が確定する。
実際,仏教最初期に編纂された最古の仏典ということになっている『スッタニパータ』では,主調になっている「真理を知る → 解脱 → 平安の境地」は,手の届くレベルのものである。
──そもそも,手の届かないものであれば,教えにはならない。
宗教の秘訣は,これを手の届かないものにすることである。
手の届かないものにすることによって,僧・教団という特権的地位・組織が立てられるようになる。
かくして,「真理を知る → 解脱 → 平安の境地」は,つぎのような途方も無いもの (荒唐無稽) にされていく:
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『大智度論』巻32
菩薩摩訶薩 欲知 一切諸法 如 法性 實際,
當 學 般若波羅蜜。‥‥
菩薩摩訶薩 應 如是 住 般若波羅蜜。
菩薩摩訶薩は,一切の諸法の如,法性,実際を知らんと欲せば,
まさに般若波羅蜜を学ぶべし。‥‥
菩薩摩訶薩は,まさに是の如く般若波羅蜜に住すべし。
諸法實相中 三世 等一 無異。‥‥
過去如 未來如 現在如 如來如 一如 無有異。
諸法の実相中にては,三世 [過去・未来・現在] は等しく一にして異なる無し。‥‥
過去の如,未来の如,現在の如,如来の如は,一つの如にして異なる有ること無し。
法性者 法名 涅槃。
不可壞 不可戲論。
法性 名為 本分種。
如 黃石中有金性 白石中有銀性。
如是 一切世間法中 皆有 涅槃性。
法性なる者は,法を涅槃と名づく
壊すべからず,戯論すべからず。
法性は,名づけて本分の種と為す。
黄石中に金の性が有り,白石中に銀の性が有るが如し。
この如く,一切の世間の法中には皆涅槃の性有り。
一切總相 別相 皆歸 法性,同為 一相。
是 名 法性。‥‥
智慧 分別 推求 已,到 如中,從 如 入 自性。
如本末 生, 滅 諸戲論。
是 名為 法性。
一切の総相,別相は,皆法性に歸し,同じく一相と為る。
是れを法性と名づく。‥‥
智慧の分別・推求が已み,如の中に到り,如に從りて自性に入る。
如の本末が生じ,諸の戲論が滅す。
是を名づけて法性と為す。
[菩薩] 知 諸法實相中 無有 常法,無有 樂法,無有 我法,無有 實法。
亦 捨 是觀法。
如是 等一切觀法 皆滅。
是為 諸法 實如涅槃 不生不滅,如本末 生。
[菩薩は] 諸法の実相中には 常法の有ること無く,楽法の有ること無く,我法の有ること無く,実法の有ること無し,を知る。
また是の観法を捨てる。
是の如くして,等しく一切の観法が皆滅す。
是れ,諸法の実に涅槃の如く不生不滅にして,如の本末の生ずるを,為す。
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