Up | アヴァンギャルド | 作成: 2018-03-26 更新: 2018-04-04 |
思想シーンでは,流行りのようにこれが現れる。 これの一般的名称は「アヴァンギャルド」である。 「現代○○」と名乗って登場してくるのはこの類である。 近くには──といっても,既にずいぶん前のこととなったが──「ポストモダン」なるものがあった。 この流行りに乗ってくるのは,若い者である。 若い者は持たない者だからである。 <持っているように見せかける>の方法は,<思わせぶりな物言いをする>である。 これはペテンであるが,<自分で自分を騙す>というところが,要点である。 当人は,《自分は何かを将につかまえんとしているのだ》と思い込もうとする。 そして,その何かのゲットを当て込み,自分はそれを持っているという思わせぶりをするのである:
Quoi ? — L'Éternité. C'est la mer allée Avec le soleil 持たない者が持つ者になろうとするとき,本来行うことは「学」である。 <持っているように見せかける>を用いる者は,「学」に疎外されている者である。 ひとは,自分を疎外しているものに対し,仕返ししたいと思う。 <持っているように見せかける>を用いる者は,「学」への仕返しとして,<持っているように見せかける>をするのである。 <持っているように見せかける>は,いつまでも続かない。 当人が,この欺瞞に飽きてくる。 これを続ける者は,引っ込みがつかなくなった者である。 一方,「学」に疎外される者は,つねに生産される。 よって,前回のアヴァンギャルドが世代忘却される頃に,アヴァンギャルドが再びおこる。 アヴァンギャルドは,<思わせぶり>詐欺といったものであるが,<思わせぶり>詐欺の形で主題化されることがない。 ひとは,アヴァンギャルドに取り込まれるからである。 即ち,アヴァンギャルドを前にすると,自分を遅れている者にしてしまう。 そして,アヴァンギャルドを理解する者を装うのである。 「思想がわかる」には,「<思わせぶり>詐欺がわかる」が含まれる。 <思わせぶり>詐欺がわからないでは,思想はわからない。 巷には,「禅とは何か」のタイトルの論考があふれている。 本論考の「禅とは何か」は,それらとは違うものである。 本論考は,禅の<思わせぶり>詐欺の面を見ようとする。 禅の「不立文字」は,ただの思わせぶりであり,詐欺である。 この詐欺行為は,引っ込みがつかない。 禅は,<思わせぶり>詐欺が引っ込みがつかなくなるときの形を,見せてくれる。 禅が見せてくれるものは,「正」のことばにミスリードされ,「不立文字」「至道無難 唯嫌揀択 纔有言語 是揀択」「平常心」を唱えて自縄自縛になる者たちの様である。 本論考は,興味深い生物種を観察するように,「禅」の者たちの様を観察しようとする。 |