Up 「至道」幻想共同体 作成: 2018-03-23
更新: 2018-04-15


    禅は,教えたり授けたりするものをもたず,そしてもてない。
    もてないのは,自分で自分をそう仕向けたからである。

    しかし実際には,師が措かれ,学校が営まれる。
    教えたり授けたりするものが無くて,どうして学校が成り立つのか。

    たしかに,学生は「至道」の思いで学生になった者たちである。
    この学生に対し師は,「至道」を匂わす。
    しかし学校は,これだけで成立するものではない。


    空っぽの学校を成立させるものは,集団心理である。
    よい学校だから,自分はこれの員でいる」が正当な論理であるが,集団心理のダイナミクスはこれをつぎのように顚倒する:
     「 自分がこれの員でいるからには,よい学校であるとせねばならない
    これはもともと,個人の合理化の心理である。
    この合理化が,集団的に無意識レベルで進行するのである。
    集団的になるのは,同じ境遇にあることが救いになるためである。

    禅の学校は,このような学校である。
    それは,員の幻想で保っている学校である。
    その幻想は,「至道」幻想である。
    ──もっとも,禅の「至道」ははじめから幻想であるが。