Up 学校の保守 : 要旨 作成: 2018-03-27
更新: 2018-04-13


    禅とは,禅学校のことである。
    この学校は,己の主義により,学を放棄する。
    その主義は,空観である。
    空観の含意になる<無為──作為の棄却>により,禅は学を立ててはならないものになる。

    一方,禅は学校形態は保持しようとする。
    実際,学校を無くすことは己の居場所を無くすことである。
    禅は,ここではご都合主義につく。

    では,この学校は何をする学校か。

    禅の自縄自縛は続く。
    禅は,何かを立てるということができない。
    禅は,<何物も立てない>と<修行>がイコールになるような修行を立てねばならない。
    「<何物も立てない>と<修行>がイコールになるような修行」は,ナロウパスというものではなく,単にナンセンスである。
    ここに禅は,にっちもさっちもいかないダブルバインドに嵌まる。

    後は,屁理屈を無理矢理つくるだけである。
    そしてつぎが,その屁理屈である:
      『臨済録』「示衆」
    但能 隨縁 消舊業、任運 著衣裳
    行、坐。
    無 一念心希求佛果。
    縁何 如此
    古人云、若 欲 作業求佛、佛是 生死大兆。

    但だ能く縁に随って旧業を消し、運に任せて衣裳を著ける。
    行くを要めば即ち行き、坐すを要めばば即ち坐す。
    一念心の仏果を希求する無し。
    何に縁[よ]ってか此の如くなる。
    古人云く、「若し作業[さごう]して仏を求めんと欲すれば、仏は生死の大兆なり」と

    ここでは,<何物も立てない>が<平常>に代えられている。
    なぜそれで納得されるのか。
    ここにも,空観の応用がある。

    空観は現前の全肯定になる。
    「作為を退ける」は,「現前をそのまま受け入れる」になるからである。
    こうして,現前は「現成」である。
    理は<平常>に顕れている,となる。
    ここで,強引に論理の飛躍をやる:「<平常>が修行だ


    禅は,ダブルバインドの体勢で,主義と生業の二股をかける。